2019年11月13日

平等という青い鳥 前編

同じ人がやっている議論でも、
議題が変わったら、
あれ? さっき言ってたことと矛盾してない?

そんな風に感じた経験はありませんか?

最近、僕が首を傾げているのが、
『格差社会』と『努力が報われる社会』の議論。

さまざまな場面で格差社会、
とりわけ収入格差は「悪いことである!」
というニュアンスで語られていますよね?

なるほど。

方や、どんなに努力しても報われない、
たとえば貧困が構造化している南西アジアや、
サハラ砂漠以南のアフリカ、中南米の社会の話になると、
「ああ、日本に生まれて良かった!」となる。

個人的にがんばったんだから、
その努力に応じて個人的なご褒美(結果)も欲しい。
それが実現している社会は素晴らしい。

なるほど。

なんですけどね、
これが横並びにされると、
僕にはよく分からなくなるんですよ。
(頭悪くてすみません)

だってね、
たとえば収入格差を例にすると、
スタートラインで平等性が確保されていたとしても、
個人的な努力の結果にはとうぜん差が出てくるでしょう?

そして、
その『結果』は基本的に譲渡や相続が可能なものが多い。
となると、努力 → 結果 → 譲渡(相続) → その上で努力・・・
このサイクルが世代を跨いで回れば回るほど、
必然的にスタートラインの平等性はなし崩しになってしまう。

つまり、努力が報われる自由競争社会において、
平等性はスタート時点ですら成立しようがない。

って、ことにならないかしらん?

その格差を『身の丈』として甘受し、
「しょうがないよね〜・・・」と諦める以外に、
何か選択肢はあるのか?

はてさて・・・

to be continued...

えーじ
posted by ととら at 17:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記