「30秒前。準備はいいかい?」
6月28日月曜日。時刻は8時59分。
ともこは電話の子機を握りしめ、
カウンターに座った僕の前にはパソコンとスマホ。
「10秒前」
ともこが緊張のせいか前傾姿勢になっています。
「5、4、3、2、1、スタート!」
彼女は近所でワクチン接種ができる病院5か所に電話し始めました。
僕はまずネットで予約サイトにアクセス。
「なにこれ、どこも繋がらない!」
「こっちもダメだ。
『ただいま大変混み合っています』ページに飛ばされちまう」
パソコンはそのままにして、
僕もスマホで病院とコールセンターにかけはじめました。
「む〜・・・」
「・・・どこも話し中だよ」
10分が経過し・・・
「ネットはどう?」
「変わらない。あんまりアクセスを繰り返すと、
IPアドレスを覚えられてはじかれるかもしれないから、
5分おきにやってる」
「電話も繋がらないね」
「親の手配をやった高崎市や横浜市とは状況が違うな」
20分が経過し・・・
「やっぱりダメか〜」
「ネットの状況も同じだよ。
アクセスが集中してサーバーがタイムアウトしてる」
25分が経過し・・・
「ん〜・・・こりゃどうしようもないね。
すべてのチャネルがジャムってる」
「困ったなぁ・・・
もうすぐ9時半だからランチの支度を始めなくちゃ」
「仕方ない、午後にまたトライしてみるか」
「あ、ああっ!繋がった!」
「どこ?」
「駅前の内科! あ、も、もしもし?」
駅前の内科? ああ、あそこか。
でも僕は暫く通院してないんで予約できないな。
「あの、ワクチン接種の予約をしたいんですけど・・・
え? 最短で1回目が8月27日!?」
そりゃまた随分おそいな。
「どうしよ? 2カ月も後だよ」
「とりあえず押さえておいた方がいい」
「それじゃ8月27日でお願いします」
30分が経過し・・・
さて、残るは僕か。
なんだかハイティーンの頃にコンサートチケットを買おうとして、
ウドー音楽事務所に電話しまくったのを思い出すな。
もう一回トライしてダメだったら午後にやり直そう。
予約サイトは相変わらずビジー。
僕は3か所の候補にまた電話をかけ始めました。
1か所目・・・話中、2か所目・・・話中、
3か所目・・・話中?、いや、おっ! かかったぞ!
場所は同じ商店街にある耳鼻咽喉科。
しかしコールが鳴っても相手が出ません。
10秒・・・20秒・・・30秒・・・ダメか?
あっ!
「もしもし? ワクチン接種の予約をしたいのですが?
え? 1回目が7月5日の月曜日? 午前中?
OKです。で、2回目が7月26日? それでお願いします!」
そうか、ここは確かともこもかかってたな。
「それからうちのワイフも一緒に予約したいのですが。
え? いいですか? それじゃ電話を変わりますね」
「もしもし? あ、はい、妻のともこです。
同じ日に打てますでしょうか? え? 同じ時間が空いている?
それじゃ一緒にお願いします!」
「良かったね!」
「ああ、これで二人とも7月中にけりをつけられる」
「じゃ、先に予約したところをキャンセルしなくちゃ。
電話は繋がらないだろうから直接行ってくるね」
ふ〜・・・というわけで、
35分間の電撃オペレーションは何とか成功したのでありました。
えーじ
2021年06月29日
2021年06月27日
Age is just a number.
ととら亭のお客さまは比較的に年齢が高めですけど、
最近、30歳前後の方がぼちぼち増えてきています。
そこで時おり耳にするフレーズが、
「もう年ですから・・・」
って、おいおい、そういう君は幾つだい?
と訊けば、
「29歳です」
・・・?
ちょお〜っと待ったぁ!
30歳を前にして「もう年」ならば、
まもなく58歳になる僕の立場はどうなるの?
この言葉、
実はすべからく僕より年下の方から聞いたものなんですよ。
諸君、なんでまたその年齢で、ため息をつかねばならんの?
僕からしてみれば、どなたもまさしく可能性の塊。
何をしてもOKだと思うんですけどね。
手ひどい失敗をしたって十分リカバーできるし。
たとえば僕が29歳だったときは・・・
あ、ヤバ・・・
こいつは公の場で言えない内容だった。
あまりに無茶苦茶だったので、
これは僕の死後出版される予定の自叙伝を読んでいただくとして、
とにかくうだうだ考えるより、
(いま風に言えばスマホをこちょこちょしてるより)
経験ありき。
これに尽きる。
そのココロは?
経験したらわかります。
いや、経験しないとわかりません。
これ、おっさんの上から目線で言っているのではなく、
何歳になろうとも、人間の学習の原則は同じなんですよ。
身近な例でいえば、
ハーレクインロマンスを全巻読破したって、
ひとつの恋愛をしたことにもならんでしょ?
人を好きにならなければ、
人から好きになってもらわなければ、
そして、その好きな人から嫌われなければ、
『あの感情』はわかりません。
そう、人間として大切な学習は学校で終了するものではない。
おっさんになっても終わらないし(少なくとも僕はね)、
たぶん、お爺さんにっても終わらないでしょう。
だから大丈夫。
何歳になっても学ぶことがなくならないならば、
何歳になっても可能性があるってこと。
Let's do it! Do it today!!
えーじ
最近、30歳前後の方がぼちぼち増えてきています。
そこで時おり耳にするフレーズが、
「もう年ですから・・・」
って、おいおい、そういう君は幾つだい?
と訊けば、
「29歳です」
・・・?
ちょお〜っと待ったぁ!
30歳を前にして「もう年」ならば、
まもなく58歳になる僕の立場はどうなるの?
この言葉、
実はすべからく僕より年下の方から聞いたものなんですよ。
諸君、なんでまたその年齢で、ため息をつかねばならんの?
僕からしてみれば、どなたもまさしく可能性の塊。
何をしてもOKだと思うんですけどね。
手ひどい失敗をしたって十分リカバーできるし。
たとえば僕が29歳だったときは・・・
あ、ヤバ・・・
こいつは公の場で言えない内容だった。
あまりに無茶苦茶だったので、
これは僕の死後出版される予定の自叙伝を読んでいただくとして、
とにかくうだうだ考えるより、
(いま風に言えばスマホをこちょこちょしてるより)
経験ありき。
これに尽きる。
そのココロは?
経験したらわかります。
いや、経験しないとわかりません。
これ、おっさんの上から目線で言っているのではなく、
何歳になろうとも、人間の学習の原則は同じなんですよ。
身近な例でいえば、
ハーレクインロマンスを全巻読破したって、
ひとつの恋愛をしたことにもならんでしょ?
人を好きにならなければ、
人から好きになってもらわなければ、
そして、その好きな人から嫌われなければ、
『あの感情』はわかりません。
そう、人間として大切な学習は学校で終了するものではない。
おっさんになっても終わらないし(少なくとも僕はね)、
たぶん、お爺さんにっても終わらないでしょう。
だから大丈夫。
何歳になっても学ぶことがなくならないならば、
何歳になっても可能性があるってこと。
Let's do it! Do it today!!
えーじ
2021年06月24日
これまた別のニューノーマル?
コロナ禍が始まった昨春以来、
ここ野方でもテレワークの方が増えました。
そこでどんな影響がととら亭に出ているのか?
それは商圏特性の変化。
たとえば野方のような住宅地型商店街と、
新橋や丸の内のようなオフィス街では、
同じ飲食店をやるにしても内容は大きく異なります。
その最もたるものがランチタイム。
オフィス街では12時の時報とともに、どっと人があふれ出し、
瞬く間に飲食店のテーブルが埋まって行きます。
お客さまの食べるスピードも速い。
そして嵐のような1時間が過ぎると、
さっきまでの混雑が嘘のように、店内が空いて行く。
片や住宅地型商店街では、12時少し前から緩やかに混み始め、
13時少し前あたりにピークが来て、
そこからまた少しずつ減って行く。
オフィス街のような急激なピークはありません。
当然、お客さまはゆっくりしている方が多い。
というわけで、飲食店はその商圏特性に合わせて、
オペレーションやメニューを決めているのです。
ところが!
コロナ禍が始まって以来・・・
「いらっしゃいませ」
あれ? このカップルは週末に来る人たちだよな?
ん? あの人もそうだ。
こんな風に週末に来ていた方たちが平日現れるようになり、
さらにオフとは思えないスピードで食べて行くじゃないですか!
そう時間はまさしく12時前後にご来店し、
13時前にはささっと帰ってしまう。
訊けばやっぱり皆さん、テレワーク中とのこと。
こうなると僕らのオペレーションも変わります。
というか、パット・メセニーやブラッド・メルドーものけぞる、
過激な変拍子でプレイしているのですよ。
なぜなら野方モードのお婆ちゃんたちの隣で、
新橋モードの方々がランチしているんですからね。
このスピードとリズムのギャップは半端じゃありません。
慌ただしい雰囲気にしちゃいけない。
それでいて時間内に帰してあげなくちゃいけない人たちもいる。
うひゃ〜・・・
ってわけで、夏を待たずして、
いい汗をかいている僕らでございました。
えーじ
ここ野方でもテレワークの方が増えました。
そこでどんな影響がととら亭に出ているのか?
それは商圏特性の変化。
たとえば野方のような住宅地型商店街と、
新橋や丸の内のようなオフィス街では、
同じ飲食店をやるにしても内容は大きく異なります。
その最もたるものがランチタイム。
オフィス街では12時の時報とともに、どっと人があふれ出し、
瞬く間に飲食店のテーブルが埋まって行きます。
お客さまの食べるスピードも速い。
そして嵐のような1時間が過ぎると、
さっきまでの混雑が嘘のように、店内が空いて行く。
片や住宅地型商店街では、12時少し前から緩やかに混み始め、
13時少し前あたりにピークが来て、
そこからまた少しずつ減って行く。
オフィス街のような急激なピークはありません。
当然、お客さまはゆっくりしている方が多い。
というわけで、飲食店はその商圏特性に合わせて、
オペレーションやメニューを決めているのです。
ところが!
コロナ禍が始まって以来・・・
「いらっしゃいませ」
あれ? このカップルは週末に来る人たちだよな?
ん? あの人もそうだ。
こんな風に週末に来ていた方たちが平日現れるようになり、
さらにオフとは思えないスピードで食べて行くじゃないですか!
そう時間はまさしく12時前後にご来店し、
13時前にはささっと帰ってしまう。
訊けばやっぱり皆さん、テレワーク中とのこと。
こうなると僕らのオペレーションも変わります。
というか、パット・メセニーやブラッド・メルドーものけぞる、
過激な変拍子でプレイしているのですよ。
なぜなら野方モードのお婆ちゃんたちの隣で、
新橋モードの方々がランチしているんですからね。
このスピードとリズムのギャップは半端じゃありません。
慌ただしい雰囲気にしちゃいけない。
それでいて時間内に帰してあげなくちゃいけない人たちもいる。
うひゃ〜・・・
ってわけで、夏を待たずして、
いい汗をかいている僕らでございました。
えーじ
2021年06月21日
さらなるカオスへ
今日からまた営業条件が変わります。
ま、例によって予想通りと申しますか、その内容は・・・
【期 間】
6月21日(月)〜7月11日(日)
【営業時間】
18:00 オープン
19:00 オーダーストップ(酒の提供も)
20:00 クローズ
ランチ営業時間は通常通りです。
【利用時間】
1回 90分
【飲 酒】
11:00から19:00までお酒の提供は可能。
ただし1組で飲酒できるのは2名まで。
で、紛らわしいのが・・・
【人数制限】
ひとりでもお酒を飲む人がいる場合は2名まで。
しかし、この人数制限に子供と介助者は含まれません。
また国の人数制限は4人までとなっていますが、
東京都発の現時点のアナウンスによれば、
『飲酒をしなければ人数制限はない』と解釈できます。
(まぁ、ととら亭に限っていえば、
昨今4名さま以上のグループは極めて稀ですが・・・)
さて、僕らは愚直にこれらを守って行くつもりですけど、
確実に増えつつあるモロ営業や闇営業の店を、
行政はどうするんでしょうね?
いろんなとこからクレームが入りまくってるだろうし。
こう首をかしげているのも、
悪いことほどよくあたる僕の推測によれば、
今回の規制は7月11日に解除されるどころか、
オリンピックを前により厳しくなると考えているからなんですよ。
『既定のハードル』をクリアしていたはずの、
ウガンダ選手団から陽性者が出た件や、
入国者の位置情報が3割も不明になっている現状からして、
今や検疫システムは、ほぼザルになっちゃってるでしょ?
これからは海外メディアも大挙してやって来るけど、
これは無観客うんぬんとは別のリスク要因ですからね。
とにかくワクチン接種率の上昇以外にポジティブな要素がない。
当然、それを見越した僕らの親分、
小池さんが看過するとは思えません。
彼女は先日の「開催うんぬんは開催者に訊いて」っていう、
菅首相から引かされたババにそうとう怒っていると思うので、
自分に与えられた権限の限界まで厳しい規制を敷き、
再度、オリンピック期間中に非常事態宣言を出すタイミングで、
「私はやれるかぎりのことをやりました!」って10倍返しを狙う・・・
(つまりこれ以上の不幸は政府のせいってこと)
一方で現場は締め付け強化の反動から、
モロ営業と闇営業の店が増え続けるという、まさしく負のスパイラル。
む〜・・・なんだかカオスになってきましたね。
できるなら、これ以上のとばっちりは受けたくないのですが、
そういうわけにはいかないんだろうなぁ・・・
えーじ
ま、例によって予想通りと申しますか、その内容は・・・
【期 間】
6月21日(月)〜7月11日(日)
【営業時間】
18:00 オープン
19:00 オーダーストップ(酒の提供も)
20:00 クローズ
ランチ営業時間は通常通りです。
【利用時間】
1回 90分
【飲 酒】
11:00から19:00までお酒の提供は可能。
ただし1組で飲酒できるのは2名まで。
で、紛らわしいのが・・・
【人数制限】
ひとりでもお酒を飲む人がいる場合は2名まで。
しかし、この人数制限に子供と介助者は含まれません。
また国の人数制限は4人までとなっていますが、
東京都発の現時点のアナウンスによれば、
『飲酒をしなければ人数制限はない』と解釈できます。
(まぁ、ととら亭に限っていえば、
昨今4名さま以上のグループは極めて稀ですが・・・)
さて、僕らは愚直にこれらを守って行くつもりですけど、
確実に増えつつあるモロ営業や闇営業の店を、
行政はどうするんでしょうね?
いろんなとこからクレームが入りまくってるだろうし。
こう首をかしげているのも、
悪いことほどよくあたる僕の推測によれば、
今回の規制は7月11日に解除されるどころか、
オリンピックを前により厳しくなると考えているからなんですよ。
『既定のハードル』をクリアしていたはずの、
ウガンダ選手団から陽性者が出た件や、
入国者の位置情報が3割も不明になっている現状からして、
今や検疫システムは、ほぼザルになっちゃってるでしょ?
これからは海外メディアも大挙してやって来るけど、
これは無観客うんぬんとは別のリスク要因ですからね。
とにかくワクチン接種率の上昇以外にポジティブな要素がない。
当然、それを見越した僕らの親分、
小池さんが看過するとは思えません。
彼女は先日の「開催うんぬんは開催者に訊いて」っていう、
菅首相から引かされたババにそうとう怒っていると思うので、
自分に与えられた権限の限界まで厳しい規制を敷き、
再度、オリンピック期間中に非常事態宣言を出すタイミングで、
「私はやれるかぎりのことをやりました!」って10倍返しを狙う・・・
(つまりこれ以上の不幸は政府のせいってこと)
一方で現場は締め付け強化の反動から、
モロ営業と闇営業の店が増え続けるという、まさしく負のスパイラル。
む〜・・・なんだかカオスになってきましたね。
できるなら、これ以上のとばっちりは受けたくないのですが、
そういうわけにはいかないんだろうなぁ・・・
えーじ
2021年06月18日
お祝いしよう!
ととら亭は気軽な普段使いのほか、
誕生日や結婚記念日などの、
お祝いでご来店されるお客さまが少なくありません。
そして、そうした方々を迎える僕らもまた、
お客さま以上のお祝い好き。
というかマニアなんですよ。
誕生日や結婚記念日にとどまらず、
ととら亭の独立記念日から始まり、
プライベートな『出会いの日』や『付き合いはじめた日』など、
1年の間にプライベートな祝日を何日も設けていますからね。
で、それぞれのお祝いの大切なセレモニーがカードの交換。
それからもちろん、ご馳走とスパークリングワイン!
(このための名目という説もありますが・・・)
こうしたお祝いを僕たちは心から楽しむとともに、
とても大切にしているんですよ。
なぜなら平凡な日々の中で忘れがちな、
人生の原点を思い出させてくれますからね。
しかしながら『過ぎたるは及ばざるがごとし』と言われるように、
あんまり増え過ぎると思わぬ問題も起こってきます。
そう、あれは先日の結婚記念日の朝。
ふ〜む・・・
カードを手渡しするんじゃまんねりだな。
なんかこう、サプライズ的な演出が欲しいね。
・・・そうだ、
ともこが大切にしているブタの縫いぐるみがカードを届ける。
これで行こう!
そうして僕はカードと縫いぐるみをバックパックに入れてお店へ。
ともこは僕より1時間前に来て仕込みをしていました。
そこで彼女がこっちに来る前にカウンターに縫いぐるみを置き、
それがカードを持っているかのように立てかけたのです。
しばらくして・・・
「あ、えーじ、おはよう!」
「おはよう」
「今朝はちょっと早かったのね」
「そうかい?」
「・・・ん? とんちゃん、何してるの?
なんでお店に来たの? あれ? なんか持ってる」
僕は気付かないふりをして本を読んでいました。
「・・・? カード?」
ともこは何やら考え込んでいます。
「え?・・・カード?
あ〜っ! たいへんっ!
記念日だ! なんだったっけ? 誕生日? じゃなかった!」
といいつつ僕に救いを求める視線を送り、
「どうしよ! なんの記念日だったっけ?」
「さぁ〜てねぇ・・・」
そしておもむろにカードを封筒から取り出し、
「あ〜っ! ごめん! 結婚記念日だった〜っ!
うぇ〜ん、忘れちゃったぁ!」
Such is my marriage life...
えーじ

とんちゃん
P.S.
かつてはこんなこともありました。
ともこが住み込みでフランス料理の修業時代のこと。
僕の電話が鳴り・・・
「えーじ、今日は何してたの?」
「家でのんびりしてたよ」
「こっちは夏休みで忙しくてさぁ・・・」
と、こんなともこの話が一方的に続き、電話が切れたのです。
そして間もなく再び電話が鳴り・・・
「えーじ、ゴメン! 今日は誕生日だったよね?」
この20数年、わが家はこんなものでございます。
誕生日や結婚記念日などの、
お祝いでご来店されるお客さまが少なくありません。
そして、そうした方々を迎える僕らもまた、
お客さま以上のお祝い好き。
というかマニアなんですよ。
誕生日や結婚記念日にとどまらず、
ととら亭の独立記念日から始まり、
プライベートな『出会いの日』や『付き合いはじめた日』など、
1年の間にプライベートな祝日を何日も設けていますからね。
で、それぞれのお祝いの大切なセレモニーがカードの交換。
それからもちろん、ご馳走とスパークリングワイン!
(このための名目という説もありますが・・・)
こうしたお祝いを僕たちは心から楽しむとともに、
とても大切にしているんですよ。
なぜなら平凡な日々の中で忘れがちな、
人生の原点を思い出させてくれますからね。
しかしながら『過ぎたるは及ばざるがごとし』と言われるように、
あんまり増え過ぎると思わぬ問題も起こってきます。
そう、あれは先日の結婚記念日の朝。
ふ〜む・・・
カードを手渡しするんじゃまんねりだな。
なんかこう、サプライズ的な演出が欲しいね。
・・・そうだ、
ともこが大切にしているブタの縫いぐるみがカードを届ける。
これで行こう!
そうして僕はカードと縫いぐるみをバックパックに入れてお店へ。
ともこは僕より1時間前に来て仕込みをしていました。
そこで彼女がこっちに来る前にカウンターに縫いぐるみを置き、
それがカードを持っているかのように立てかけたのです。
しばらくして・・・
「あ、えーじ、おはよう!」
「おはよう」
「今朝はちょっと早かったのね」
「そうかい?」
「・・・ん? とんちゃん、何してるの?
なんでお店に来たの? あれ? なんか持ってる」
僕は気付かないふりをして本を読んでいました。
「・・・? カード?」
ともこは何やら考え込んでいます。
「え?・・・カード?
あ〜っ! たいへんっ!
記念日だ! なんだったっけ? 誕生日? じゃなかった!」
といいつつ僕に救いを求める視線を送り、
「どうしよ! なんの記念日だったっけ?」
「さぁ〜てねぇ・・・」
そしておもむろにカードを封筒から取り出し、
「あ〜っ! ごめん! 結婚記念日だった〜っ!
うぇ〜ん、忘れちゃったぁ!」
Such is my marriage life...
えーじ

とんちゃん
P.S.
かつてはこんなこともありました。
ともこが住み込みでフランス料理の修業時代のこと。
僕の電話が鳴り・・・
「えーじ、今日は何してたの?」
「家でのんびりしてたよ」
「こっちは夏休みで忙しくてさぁ・・・」
と、こんなともこの話が一方的に続き、電話が切れたのです。
そして間もなく再び電話が鳴り・・・
「えーじ、ゴメン! 今日は誕生日だったよね?」
この20数年、わが家はこんなものでございます。
2021年06月15日
飲食業者として
今や悪の集団、飲食業界メンバーのえーじです。
先日の悪い予感が現実のものとなりつつあり、
どうやら飲食店は、少なくともオリンピックが終わるまで、
籠の鳥のままのようですね。
(もしかしたらパラリンピックが終わるまで)
まぁ、僕らの親分がオリンピックの主催者兼、
東京都の新型コロナ対策責任者とあっては、
数字がどうあれ手綱を緩めるわけにはいかないでしょう。
そんなことをすれば、最悪の事態が起こった場合に、
「私はこれだけやったんですから!」という、
切り札のエクスキューズができなくなってしまいますし。
しかしながら、
このリスクヘッジが十分であるというわけではありません。
皆さんもご存知のように、
日中に外出すれば非常事態宣言の「ひ」の字もない状態ですし、
これまた予想通り、
飲食店もなし崩し的に『通常営業』をやり始めてしまっています。
渋谷や高円寺はいわずもがな、ローカルな野方ですら、
闇営業、モロ営業ともにじわじわと増え続けています。
しかしながら行政は強硬手段に訴えるわけにはいかない。
こっそり営業しつつ、ちゃっかり協力金を申請する、
闇営業の店は同業者ながら情けない限りですが、
こと都の要請が死活問題化しているモロ営業の店については、
僕も仕方ないかな、と思っています。
高度成長期に「会社のために死んでくれ」、
なんてセリフを真顔で言っていた人たちがいましたけど、
今の時代に「社会のために失業してくれ」と言われて、
「はい、そうですか」と心血注いだ事業を放棄する経営者は、
そうそういないでしょう。
ましてやそれを要求する側が収入的に安泰な方々とあっては、
その言葉で小学生ですら納得させるのは難しいと思います。
仮に僕が夫婦二人のアウトサイダー店経営ではなく、
多くの従業員を抱えた、
『ととらホールディングス』のCEOだったとしたら、
行政の要請には・・・
従わないでしょうね、やっぱり。
(ヒールは慣れてますし・・・)
ローカルなリスク評価をするなら、
可能な限りの対策を施したうえで営業を続けることによる、
感染拡大のリスクは『可能性の問題』ですが、
要請に従った場合の倒産は『確実な未来』なんですよ。
経営者として、どちらを避けるべきかは迷う話じゃありません。
まぁ、そこは僕が言うまでもなく、
行政側も分かっているから過料の徴収すら踏み込めないんでしょうね。
ともあれオリンピックまで、あと37日。
これが壮大なデスマーチにならないことを祈るばかりです。
えーじ
先日の悪い予感が現実のものとなりつつあり、
どうやら飲食店は、少なくともオリンピックが終わるまで、
籠の鳥のままのようですね。
(もしかしたらパラリンピックが終わるまで)
まぁ、僕らの親分がオリンピックの主催者兼、
東京都の新型コロナ対策責任者とあっては、
数字がどうあれ手綱を緩めるわけにはいかないでしょう。
そんなことをすれば、最悪の事態が起こった場合に、
「私はこれだけやったんですから!」という、
切り札のエクスキューズができなくなってしまいますし。
しかしながら、
このリスクヘッジが十分であるというわけではありません。
皆さんもご存知のように、
日中に外出すれば非常事態宣言の「ひ」の字もない状態ですし、
これまた予想通り、
飲食店もなし崩し的に『通常営業』をやり始めてしまっています。
渋谷や高円寺はいわずもがな、ローカルな野方ですら、
闇営業、モロ営業ともにじわじわと増え続けています。
しかしながら行政は強硬手段に訴えるわけにはいかない。
こっそり営業しつつ、ちゃっかり協力金を申請する、
闇営業の店は同業者ながら情けない限りですが、
こと都の要請が死活問題化しているモロ営業の店については、
僕も仕方ないかな、と思っています。
高度成長期に「会社のために死んでくれ」、
なんてセリフを真顔で言っていた人たちがいましたけど、
今の時代に「社会のために失業してくれ」と言われて、
「はい、そうですか」と心血注いだ事業を放棄する経営者は、
そうそういないでしょう。
ましてやそれを要求する側が収入的に安泰な方々とあっては、
その言葉で小学生ですら納得させるのは難しいと思います。
仮に僕が夫婦二人のアウトサイダー店経営ではなく、
多くの従業員を抱えた、
『ととらホールディングス』のCEOだったとしたら、
行政の要請には・・・
従わないでしょうね、やっぱり。
(ヒールは慣れてますし・・・)
ローカルなリスク評価をするなら、
可能な限りの対策を施したうえで営業を続けることによる、
感染拡大のリスクは『可能性の問題』ですが、
要請に従った場合の倒産は『確実な未来』なんですよ。
経営者として、どちらを避けるべきかは迷う話じゃありません。
まぁ、そこは僕が言うまでもなく、
行政側も分かっているから過料の徴収すら踏み込めないんでしょうね。
ともあれオリンピックまで、あと37日。
これが壮大なデスマーチにならないことを祈るばかりです。
えーじ
2021年06月12日
待ってくれた人 その2
朝8時半。
僕が出勤するときの野方の街はデンジャーゾーン。
そんなお話をしたことがありましたけど、
先日、ついにこの11年4カ月の間、
起こらなかったことが現実となったのです。
それは・・・
自転車が止まってくれました!
誰もが忙しいこの時間に、
たっぷり踏切で止められていた自動車や自転車は、
そら恐ろしいスピードで細い道路を走り抜けて行きます。
そう、誰もが忙しい。誰もが急いでいる。
にもかかわらず、
自転車に乗っていた30歳前後の女性が止まってくれたのです。
服装と持ち物からして彼女も出勤途中だったのでしょう。
他の人たちと同じように踏切で待たされ、
先を急いでいたに違いありません。
しかし、みんながわき目もふらずに走り抜けて行くなか、
彼女だけが止まって、僕が道を渡る数秒を待ってくれた。
「どうもありがとう!」
そういった僕に彼女は微笑みだけを返し、
また走り出して行きました。
豊かさとは何なのか?
それは高級車や財布の厚みが表すものではなく、
こうした小さな自己犠牲と思いやりなのではないか?
僕はそんなことを、
名も知らない彼女から教えてもらったような気がしました、
えーじ
僕が出勤するときの野方の街はデンジャーゾーン。
そんなお話をしたことがありましたけど、
先日、ついにこの11年4カ月の間、
起こらなかったことが現実となったのです。
それは・・・
自転車が止まってくれました!
誰もが忙しいこの時間に、
たっぷり踏切で止められていた自動車や自転車は、
そら恐ろしいスピードで細い道路を走り抜けて行きます。
そう、誰もが忙しい。誰もが急いでいる。
にもかかわらず、
自転車に乗っていた30歳前後の女性が止まってくれたのです。
服装と持ち物からして彼女も出勤途中だったのでしょう。
他の人たちと同じように踏切で待たされ、
先を急いでいたに違いありません。
しかし、みんながわき目もふらずに走り抜けて行くなか、
彼女だけが止まって、僕が道を渡る数秒を待ってくれた。
「どうもありがとう!」
そういった僕に彼女は微笑みだけを返し、
また走り出して行きました。
豊かさとは何なのか?
それは高級車や財布の厚みが表すものではなく、
こうした小さな自己犠牲と思いやりなのではないか?
僕はそんなことを、
名も知らない彼女から教えてもらったような気がしました、
えーじ
2021年06月09日
先の長いお話
新型コロナウイルスワクチンの接種速度が上がってきましたね。
1カ月前なら僕たちの番は早くても年末あたりかな?
くらいに思っていたのですが、今のペースだと中野区の場合、
8月前後には接種できるかもしれません。
実際、お客さまの中にも、
「きのう打ってもらったよ」なんて方がボチボチ出始めました。
高崎市と横浜市に住む親の予約が終わり、
個人的にも一コマ進んだ気分です。
しかしながら、実際に自分で手続きをしてみると、
現場の混乱はさもありなんと思いました。
僕は2件ともウェブ経由で予約したのですけど、
あれを80歳以上の方に自分でやらせるのは、
かなり無理があるでしょう。
わが家の場合、そもそも二人ともスマホすら持ってないし。
効率とコストを優先するならITを使うというのは分かります。
でもね、これ、あの業界にいたときからずっと言っているんですけど、
ITって自律型サイボーグのことじゃないんですよ。
奇怪な横文字を羅列して高尚な印象を与えていても、
一般レベルであれば単なる道具以上でも以下でもありません。
(ノートや鉛筆と変わらない)
つまり人間が使ってはじめて結果が出るものなのです。
このブログだってそう。
パソコンが勝手に書いてくれているのではありません。
だからシステムと同等か、それ以上に大切なのは、
ユーザーである人間なんですね。
しかし、これは今でも変わらないと思いますけど、
開発プロジェクトで肩身の狭い予算しか取れないのが、
ユーザーの教育費。(でしょ?)
マニュアル作りに割けるおカネもまたしかり。
使って覚えろの虎の穴式が業界の伝統ですからね。
で、結果が出ればいいのですが、
それがどうなったのかは皆さんも自身の経験でご存じのとおり。
今回の仕組みに関して言うなら高齢者から打ち始めるのであれば、
まず電話受付にリソースを集中し、
60歳以下になるにつれウェブに移行させてゆく、
ダイナミックなリソース配分が効率、
コストの両面で良かったんじゃないかな?
ともあれ、ITが本当の意味で普及し、
かけたコストと労力がアナログ時代を上回るようになるには、
まだまだ相当の時間がかかると思います。
え、だからデジタル庁が創設されたんだ?
あ〜、あれねぇ・・・
そのお話はまたいずれしましょうか。
えーじ
1カ月前なら僕たちの番は早くても年末あたりかな?
くらいに思っていたのですが、今のペースだと中野区の場合、
8月前後には接種できるかもしれません。
実際、お客さまの中にも、
「きのう打ってもらったよ」なんて方がボチボチ出始めました。
高崎市と横浜市に住む親の予約が終わり、
個人的にも一コマ進んだ気分です。
しかしながら、実際に自分で手続きをしてみると、
現場の混乱はさもありなんと思いました。
僕は2件ともウェブ経由で予約したのですけど、
あれを80歳以上の方に自分でやらせるのは、
かなり無理があるでしょう。
わが家の場合、そもそも二人ともスマホすら持ってないし。
効率とコストを優先するならITを使うというのは分かります。
でもね、これ、あの業界にいたときからずっと言っているんですけど、
ITって自律型サイボーグのことじゃないんですよ。
奇怪な横文字を羅列して高尚な印象を与えていても、
一般レベルであれば単なる道具以上でも以下でもありません。
(ノートや鉛筆と変わらない)
つまり人間が使ってはじめて結果が出るものなのです。
このブログだってそう。
パソコンが勝手に書いてくれているのではありません。
だからシステムと同等か、それ以上に大切なのは、
ユーザーである人間なんですね。
しかし、これは今でも変わらないと思いますけど、
開発プロジェクトで肩身の狭い予算しか取れないのが、
ユーザーの教育費。(でしょ?)
マニュアル作りに割けるおカネもまたしかり。
使って覚えろの虎の穴式が業界の伝統ですからね。
で、結果が出ればいいのですが、
それがどうなったのかは皆さんも自身の経験でご存じのとおり。
今回の仕組みに関して言うなら高齢者から打ち始めるのであれば、
まず電話受付にリソースを集中し、
60歳以下になるにつれウェブに移行させてゆく、
ダイナミックなリソース配分が効率、
コストの両面で良かったんじゃないかな?
ともあれ、ITが本当の意味で普及し、
かけたコストと労力がアナログ時代を上回るようになるには、
まだまだ相当の時間がかかると思います。
え、だからデジタル庁が創設されたんだ?
あ〜、あれねぇ・・・
そのお話はまたいずれしましょうか。
えーじ
2021年06月06日
Think together case2 #3
チャック・ノーランド。
(トム・ハンクスが映画『キャストアウェイ』で演じた主人公)
ヘンリー・D・ソロー。
アレキサンダー・セルカーク。
(ロビンソン・クルーソーのモデルとされる人)
この3人に共通していることとは何か?
それは平等が不必要だったこと。
なぜか?
自分の周りに他者がまったくいなかったから。
そう、他人がいない状況で、
平等というのは不要であるばかりではなく成立すらしないんですよ。
ではなぜ他者がいると必要になるのか?
それは競争が発生するから。
ではその競争とは何なのか?
個人的な幸福を追求するために、
必要かつ限りあるリソースを他者と奪い合うこと。
とどのつまり、その基本ルールの一つが平等なんですよ。
一見、競争とは無縁の、法のもとの平等ですら、
やっぱり個人的な幸福のためですからね。
たとえば先に挙げた3人のように、
無人島や誰もいないウォールデンの森の中で得た食料は、
ぜんぶ自分の胃袋に入りますから競争は起こりえません。
(ある意味、法すらいらない)
しかし人口稠密の現代社会に住む僕たちは、
食料はともかく、学校の定員、企業や役所の採用枠という、
需要が供給を上回るリソースを争って競争しなければなりませんし、
ときには恋人や伴侶を巡っても、
他者と競い合わねばならないことだってあります。
ここで素朴に訊いていいですか?
競争の理由である幸福とは何なのでしょう?
具体的にはおカネ? 安定した職業? 大きな家?
社会的な地位? 名声? 権力? そして人も羨む素晴らしい家族?
おっと今どきでいえば、いいね!とフォロワーの数?
多分、これらのひとつだけではなく、
僕たちのイメージする幸福とはその複合体なのだと思います。
しかし、水を差すようで恐縮ですが、
これらが揃うと本当に幸せになれるのでしょうか?
だとしたら、ジャンキーになったハリウッドスターや、
自殺した超有名ミュージシャンをどう説明します?
大企業の社長ですらビルの屋上からジャンプする時代ですよ。
まぁ、そういう雲の上の人だけではなく、
僕の周りですら『一流』大学を卒業して、『一流』企業に就職し、
50歳を手前にリストラの憂き目にあった人や、
遊んで暮らせる孤独な大金持ち、
結婚して家族を手に入れても泥沼の離婚調停で苦しんでいる人など、
社会的に認知された幸福のモデルを実現したにもかかわらず、
期待とは真逆の結果に陥った人は、けして稀な存在ではありません。
そしてその逆もまた然り。
暴走族上がりの低学歴にもかかわらず暖かい家庭を築いた人。
凶状持ちでも多くの人に慕われている慈善事業家。
ルックスはモデルとかけ離れていてもやさしい伴侶を得た人。
シングルでも心から仕事と趣味を楽しんでいる人。
こうした幸福のモデルとは一致していないにもかかわらず、
満ち足りた人生を送っている人も少なくない。
(もちろん悩みが一切ないという意味ではなく)
この歩く現実を目の当たりにして、ふと思ったんですけどね、
競争って、ぜったい必須ではないんじゃないかしらん?
別のいい方をすると、
競争の勝者に幸福が約束されていない事実を認めるなら、
それこそ自らの自由意思で競争をしない人生も選び得るのではないか?
それに必要なのはたったひとつ。
人から抜きんでるスキル以上に大切なのは、
自分の幸福とは何なのか?
この問いに正面から向き合うこと。
なぜならアノニマスが囁く幸福のモデルを闇雲にコピペして、
自分のオリジナルだと錯覚すると、
多大な努力と、時間とおカネを投資しても、
結局、得たものはせいぜい束の間の満足しかもたらさないから。
そう、そもそも幸福とは色や形を持つモノではなく、
心の状態ですからね。
閑話休題。
究極的に、僕らはひとりの例外もなく、
不平等という意味においてのみ平等である。
どうやら今の僕の頭では、
これをテーゼとして認めざるを得ないようです。
(どなたか突破できるなら助けてください)
しかし、平等が競争の影としてしか存在しないのであれば、
自分なりの幸福のモデルを持ち、競争を回避することで、
不平等な現実を嘆く動機もまた消しうるのではないか?
確かに、S氏は不幸に見えました。
いや、実際そうだったのでしょう。
でも、談話室の彼女は、
自身の幸福のモデルにおいて、ハッピーだったのかもしれない。
そう、僕に背を向けていた彼女は、
談話室に差し込む日差しを浴びて、微笑んでいたのではないか?
「わたしは幸せよ」
今の僕には、そんな声が聞こえるような気もします。
End
えーじ
(トム・ハンクスが映画『キャストアウェイ』で演じた主人公)
ヘンリー・D・ソロー。
アレキサンダー・セルカーク。
(ロビンソン・クルーソーのモデルとされる人)
この3人に共通していることとは何か?
それは平等が不必要だったこと。
なぜか?
自分の周りに他者がまったくいなかったから。
そう、他人がいない状況で、
平等というのは不要であるばかりではなく成立すらしないんですよ。
ではなぜ他者がいると必要になるのか?
それは競争が発生するから。
ではその競争とは何なのか?
個人的な幸福を追求するために、
必要かつ限りあるリソースを他者と奪い合うこと。
とどのつまり、その基本ルールの一つが平等なんですよ。
一見、競争とは無縁の、法のもとの平等ですら、
やっぱり個人的な幸福のためですからね。
たとえば先に挙げた3人のように、
無人島や誰もいないウォールデンの森の中で得た食料は、
ぜんぶ自分の胃袋に入りますから競争は起こりえません。
(ある意味、法すらいらない)
しかし人口稠密の現代社会に住む僕たちは、
食料はともかく、学校の定員、企業や役所の採用枠という、
需要が供給を上回るリソースを争って競争しなければなりませんし、
ときには恋人や伴侶を巡っても、
他者と競い合わねばならないことだってあります。
ここで素朴に訊いていいですか?
競争の理由である幸福とは何なのでしょう?
具体的にはおカネ? 安定した職業? 大きな家?
社会的な地位? 名声? 権力? そして人も羨む素晴らしい家族?
おっと今どきでいえば、いいね!とフォロワーの数?
多分、これらのひとつだけではなく、
僕たちのイメージする幸福とはその複合体なのだと思います。
しかし、水を差すようで恐縮ですが、
これらが揃うと本当に幸せになれるのでしょうか?
だとしたら、ジャンキーになったハリウッドスターや、
自殺した超有名ミュージシャンをどう説明します?
大企業の社長ですらビルの屋上からジャンプする時代ですよ。
まぁ、そういう雲の上の人だけではなく、
僕の周りですら『一流』大学を卒業して、『一流』企業に就職し、
50歳を手前にリストラの憂き目にあった人や、
遊んで暮らせる孤独な大金持ち、
結婚して家族を手に入れても泥沼の離婚調停で苦しんでいる人など、
社会的に認知された幸福のモデルを実現したにもかかわらず、
期待とは真逆の結果に陥った人は、けして稀な存在ではありません。
そしてその逆もまた然り。
暴走族上がりの低学歴にもかかわらず暖かい家庭を築いた人。
凶状持ちでも多くの人に慕われている慈善事業家。
ルックスはモデルとかけ離れていてもやさしい伴侶を得た人。
シングルでも心から仕事と趣味を楽しんでいる人。
こうした幸福のモデルとは一致していないにもかかわらず、
満ち足りた人生を送っている人も少なくない。
(もちろん悩みが一切ないという意味ではなく)
この歩く現実を目の当たりにして、ふと思ったんですけどね、
競争って、ぜったい必須ではないんじゃないかしらん?
別のいい方をすると、
競争の勝者に幸福が約束されていない事実を認めるなら、
それこそ自らの自由意思で競争をしない人生も選び得るのではないか?
それに必要なのはたったひとつ。
人から抜きんでるスキル以上に大切なのは、
自分の幸福とは何なのか?
この問いに正面から向き合うこと。
なぜならアノニマスが囁く幸福のモデルを闇雲にコピペして、
自分のオリジナルだと錯覚すると、
多大な努力と、時間とおカネを投資しても、
結局、得たものはせいぜい束の間の満足しかもたらさないから。
そう、そもそも幸福とは色や形を持つモノではなく、
心の状態ですからね。
閑話休題。
究極的に、僕らはひとりの例外もなく、
不平等という意味においてのみ平等である。
どうやら今の僕の頭では、
これをテーゼとして認めざるを得ないようです。
(どなたか突破できるなら助けてください)
しかし、平等が競争の影としてしか存在しないのであれば、
自分なりの幸福のモデルを持ち、競争を回避することで、
不平等な現実を嘆く動機もまた消しうるのではないか?
確かに、S氏は不幸に見えました。
いや、実際そうだったのでしょう。
でも、談話室の彼女は、
自身の幸福のモデルにおいて、ハッピーだったのかもしれない。
そう、僕に背を向けていた彼女は、
談話室に差し込む日差しを浴びて、微笑んでいたのではないか?
「わたしは幸せよ」
今の僕には、そんな声が聞こえるような気もします。
End
えーじ
2021年06月04日
Think together case2 #2
僕は16日間に及ぶ入院生活をかなり楽しんでいました。
特に見晴らしのいい談話室で缶コーヒーを飲みながら、
(軟禁状態で唯一の『売店』が1台の自動販売機だったんですよ)
お気に入りの音楽を聴き、
本を読んだり、ものを書いたりする時間は、
さながらちょっとしたバカンス気分。
はぁ〜、いいねぇ、こういうのも。
左足はニーブレイズで棒状に固定されたお荷物ですし、
移動は松葉杖を使わなければできませんでしたけど、
それを補って余りある自由を満喫していたのです。
そうした場違いな入院患者が物珍しかったのか、
談話室にいると、よく他の患者さんや医療関係者から話かけられました。
そこでまた入院よもやま話で盛り上がる。
整形外科病棟は基本的に治る方向へ進む人が多いので明るいんですよ。
しかし、そんなにぎやかな会話の外で、
部屋の隅にひっそりと座っている女性がいました。
いや、正確に言うと、座っているというより、
置かれていると言った方が近いかもしれません。
なぜなら彼女は先天的な形成不全で、
四肢が2歳児程度までしか発育していなかったのです。
ですから自分で移動することはいっさいできず、
談話室に来るのも看護師さんに運んでもらうしかありませんでした。
僕は彼女に気付いてから、
にぎやかな会話には加わらないようになりました。
僕たちは治りつつある。
でも彼女は・・・
ここでも僕は病室と同じように考え始めたのです。
なぜ僕は彼女にできないことができて
なぜ彼女は僕にできることができないのか?
この自問自答は決定的でした。
身体的差異の原因は医学的に説明できても、
当事者が納得するに足る理由とは、
遺伝子異常などという無味乾燥な用語でないでしょう。
そして『現在の自分とは過去の自分の自由選択の結果である』という、
因果律的な説明は、完全に無効ではないものの、
極めて限られた状況でしか適用できない。
彼女の後姿を見ていて、僕はそう認めざるを得なかったのです。
そう、平等とは、スポーツや学力試験など、
特定の条件下で限定的に実現可能な『競争の土台』であって、
それとてまた僕らが無邪気にイメージしているほど、
完璧なものではない。
僕たちは生れてまもなくから様々な種類の競争環境に晒され、
ふるい分けされつつ、能力別グループに分割されてゆきます。
これは記憶に新しい最近のものであればあるほど、
なんだかフェアに見えなくもない。
自分のやった努力を覚えていますからね。
しかし思い出せない原点に遡るにつれてリアルになるのは、
個人の努力はおろか、選択の自由意思すら及ばない、
なまなましい肉体とアプリオリな知的能力の差なんですよ。
そしてこの最初の競争の結果が、
その後の競争と個人の人生に決定的な影響をおよぼす。
ではここでもう一度、問い直してみましょう。
この原初のスタート地点における平等とは何なのか?
僕はレアなケースを持ち出して、
拡大解釈した極論をぶち上げるつもりはありません。
なぜなら個人の意思の及ばない先天的な決定事項は、
肉体的な要素にとどまらず、
たとえば性格を構成する部分にもすそ野を広げているからです。
一般的に、性格とか気質、才能などと呼ばれる、
個人を他者と区別するメンタルな属性は、
個人が意図的に獲得したものではなく、
また、厄介なことに、当の本人が嫌だと思っても、
本人の努力では消し去れないものでしょう?
(そうじゃないなら僕はもっとナイスガイになってますよ)
たとえば、今の日本では、
自己表現が苦手な人が不利になるケースが少なくありません。
こうした人は受験や就職の面接のときに、
(恋愛関係においても!)
並々ならぬ苦痛を味わっていることでしょう。
また行動のペースがゆっくりしている人も、
すべからくスピードが求められる現代社会では苦労が絶えないと思います。
こうした『口下手』とか『のんびり屋』などと言われる性格の属性の差は、
試験や就職における、
平等のパラメータとして取り上げられることはありませんが、
それがさまざまな競争の渦中で大きなファクターとなることは、
皆さんもご存じのとおりです。
そして、繰り返しになりますが、
そうした気質(性格)は、物心つく前に、
本人の意思の彼岸からやってきたものでしょう?
(少なくとも僕は自分で選んだ記憶はないです)
このアンフェアな、しかし、いかんともしがたい要素は、
平等の舞台の上でも、
性格、気質、才能などという言葉に置き換えられると中和され、
反対に、あって当たり前の単なる差異と見なされてしまいます。
そうなると最後に残るのは、
人間の社会は不平等な点においてのみ完全に平等である。
こうした身もふたもない皮肉な結論だけなのではないか?
む〜・・・、
もうちょっと夢のある話はできないのかね?
そこでない知恵しぼって、
もう少しこの平等ってやつを掘り下げてみました。
to be continued...
えーじ
特に見晴らしのいい談話室で缶コーヒーを飲みながら、
(軟禁状態で唯一の『売店』が1台の自動販売機だったんですよ)
お気に入りの音楽を聴き、
本を読んだり、ものを書いたりする時間は、
さながらちょっとしたバカンス気分。
はぁ〜、いいねぇ、こういうのも。
左足はニーブレイズで棒状に固定されたお荷物ですし、
移動は松葉杖を使わなければできませんでしたけど、
それを補って余りある自由を満喫していたのです。
そうした場違いな入院患者が物珍しかったのか、
談話室にいると、よく他の患者さんや医療関係者から話かけられました。
そこでまた入院よもやま話で盛り上がる。
整形外科病棟は基本的に治る方向へ進む人が多いので明るいんですよ。
しかし、そんなにぎやかな会話の外で、
部屋の隅にひっそりと座っている女性がいました。
いや、正確に言うと、座っているというより、
置かれていると言った方が近いかもしれません。
なぜなら彼女は先天的な形成不全で、
四肢が2歳児程度までしか発育していなかったのです。
ですから自分で移動することはいっさいできず、
談話室に来るのも看護師さんに運んでもらうしかありませんでした。
僕は彼女に気付いてから、
にぎやかな会話には加わらないようになりました。
僕たちは治りつつある。
でも彼女は・・・
ここでも僕は病室と同じように考え始めたのです。
なぜ僕は彼女にできないことができて
なぜ彼女は僕にできることができないのか?
この自問自答は決定的でした。
身体的差異の原因は医学的に説明できても、
当事者が納得するに足る理由とは、
遺伝子異常などという無味乾燥な用語でないでしょう。
そして『現在の自分とは過去の自分の自由選択の結果である』という、
因果律的な説明は、完全に無効ではないものの、
極めて限られた状況でしか適用できない。
彼女の後姿を見ていて、僕はそう認めざるを得なかったのです。
そう、平等とは、スポーツや学力試験など、
特定の条件下で限定的に実現可能な『競争の土台』であって、
それとてまた僕らが無邪気にイメージしているほど、
完璧なものではない。
僕たちは生れてまもなくから様々な種類の競争環境に晒され、
ふるい分けされつつ、能力別グループに分割されてゆきます。
これは記憶に新しい最近のものであればあるほど、
なんだかフェアに見えなくもない。
自分のやった努力を覚えていますからね。
しかし思い出せない原点に遡るにつれてリアルになるのは、
個人の努力はおろか、選択の自由意思すら及ばない、
なまなましい肉体とアプリオリな知的能力の差なんですよ。
そしてこの最初の競争の結果が、
その後の競争と個人の人生に決定的な影響をおよぼす。
ではここでもう一度、問い直してみましょう。
この原初のスタート地点における平等とは何なのか?
僕はレアなケースを持ち出して、
拡大解釈した極論をぶち上げるつもりはありません。
なぜなら個人の意思の及ばない先天的な決定事項は、
肉体的な要素にとどまらず、
たとえば性格を構成する部分にもすそ野を広げているからです。
一般的に、性格とか気質、才能などと呼ばれる、
個人を他者と区別するメンタルな属性は、
個人が意図的に獲得したものではなく、
また、厄介なことに、当の本人が嫌だと思っても、
本人の努力では消し去れないものでしょう?
(そうじゃないなら僕はもっとナイスガイになってますよ)
たとえば、今の日本では、
自己表現が苦手な人が不利になるケースが少なくありません。
こうした人は受験や就職の面接のときに、
(恋愛関係においても!)
並々ならぬ苦痛を味わっていることでしょう。
また行動のペースがゆっくりしている人も、
すべからくスピードが求められる現代社会では苦労が絶えないと思います。
こうした『口下手』とか『のんびり屋』などと言われる性格の属性の差は、
試験や就職における、
平等のパラメータとして取り上げられることはありませんが、
それがさまざまな競争の渦中で大きなファクターとなることは、
皆さんもご存じのとおりです。
そして、繰り返しになりますが、
そうした気質(性格)は、物心つく前に、
本人の意思の彼岸からやってきたものでしょう?
(少なくとも僕は自分で選んだ記憶はないです)
このアンフェアな、しかし、いかんともしがたい要素は、
平等の舞台の上でも、
性格、気質、才能などという言葉に置き換えられると中和され、
反対に、あって当たり前の単なる差異と見なされてしまいます。
そうなると最後に残るのは、
人間の社会は不平等な点においてのみ完全に平等である。
こうした身もふたもない皮肉な結論だけなのではないか?
む〜・・・、
もうちょっと夢のある話はできないのかね?
そこでない知恵しぼって、
もう少しこの平等ってやつを掘り下げてみました。
to be continued...
えーじ
2021年06月02日
Think together case2 #1
ちょっと前のお話『旅の記憶のささやき』で背負いこんだ宿題。
やらなきゃなぁ・・・と思いつつも3カ月以上が経ってしまいました。
考えていると、やっぱりどうも気が重くなってしまって、
腰が上がらなかったんですよ。
しかし先延ばしにしてばかりはいられません。
答えが出せたわけではないのですが、
ここまでのプロセスを皆さんとシェアさせて頂きたいと思います。
テーマは『平等』。
本題に入る前に、
まず僕がこの問題の再考を始めたきっかけからお話しましょう。
あれは昨年の10月、2度目の膝の手術で入院していたときのこと。
同室になったトラブルメーカーS氏の話をご記憶の方もいらっしゃると思いますが、
怒りが渦巻く病室の中で、僕は彼を見ながら別のことを考えていたのですよ。
それは・・・
なぜ僕は彼が持っていないものを持っていて、
なぜ彼は僕が持っているものを持っていないのか?
周囲の多大な迷惑にもかかわらず、
彼が必死になって求めているものは単純にして明白でした。
それはたった3つ。
体の苦痛や不快感からの解放。
飲み物を買い、テレビを見るための僅かなおカネ。
シェーバーなどレンタル品に含まれていない日用品。
しかしそのいずれも彼は得ることができなかったのです。
なぜなら知的障害と難聴という精神的かつ肉体的なハンディキャップを背負い、
生活保護を受け、家族から孤立した生活を送っていたから。
つまり支援を得るためのコミュニケーション能力を欠き、
おカネがなく、助けてくれる人もいない。
ここで僕は従前の考え方を持ち出して、
自分が納得するために彼の置かれた現状を説明しようとしました。
現在の自分とは過去の自分の自由選択の結果である。
言い換えると、
S氏と僕は人生における『平等』なスタートを切ったが、
個人的な『努力の差』により、
今日、この日の『持つものと持たざる者』の状況(結果)を作り出したのだ。
なるほど、その通り。
僕が心地よい入院ライフをエンジョイし、
S氏が苦痛と不満にまみれた日々を送るのは当然の帰結なんですね。
以上、判断終了!
にはならねぇじゃねえか、どう考えても。
個人の努力に結果責任をすべて負わせる僕の説明は破綻している。
そしてその行き詰まりを決定づける事実が、
翌日の談話室で僕を待っていたのです。
それは・・・
to be continued...
えーじ
やらなきゃなぁ・・・と思いつつも3カ月以上が経ってしまいました。
考えていると、やっぱりどうも気が重くなってしまって、
腰が上がらなかったんですよ。
しかし先延ばしにしてばかりはいられません。
答えが出せたわけではないのですが、
ここまでのプロセスを皆さんとシェアさせて頂きたいと思います。
テーマは『平等』。
本題に入る前に、
まず僕がこの問題の再考を始めたきっかけからお話しましょう。
あれは昨年の10月、2度目の膝の手術で入院していたときのこと。
同室になったトラブルメーカーS氏の話をご記憶の方もいらっしゃると思いますが、
怒りが渦巻く病室の中で、僕は彼を見ながら別のことを考えていたのですよ。
それは・・・
なぜ僕は彼が持っていないものを持っていて、
なぜ彼は僕が持っているものを持っていないのか?
周囲の多大な迷惑にもかかわらず、
彼が必死になって求めているものは単純にして明白でした。
それはたった3つ。
体の苦痛や不快感からの解放。
飲み物を買い、テレビを見るための僅かなおカネ。
シェーバーなどレンタル品に含まれていない日用品。
しかしそのいずれも彼は得ることができなかったのです。
なぜなら知的障害と難聴という精神的かつ肉体的なハンディキャップを背負い、
生活保護を受け、家族から孤立した生活を送っていたから。
つまり支援を得るためのコミュニケーション能力を欠き、
おカネがなく、助けてくれる人もいない。
ここで僕は従前の考え方を持ち出して、
自分が納得するために彼の置かれた現状を説明しようとしました。
現在の自分とは過去の自分の自由選択の結果である。
言い換えると、
S氏と僕は人生における『平等』なスタートを切ったが、
個人的な『努力の差』により、
今日、この日の『持つものと持たざる者』の状況(結果)を作り出したのだ。
なるほど、その通り。
僕が心地よい入院ライフをエンジョイし、
S氏が苦痛と不満にまみれた日々を送るのは当然の帰結なんですね。
以上、判断終了!
にはならねぇじゃねえか、どう考えても。
個人の努力に結果責任をすべて負わせる僕の説明は破綻している。
そしてその行き詰まりを決定づける事実が、
翌日の談話室で僕を待っていたのです。
それは・・・
to be continued...
えーじ