2021年07月24日

許されない社会

突然ですが、
皆さまにお訊きしてもよろしいでしょうか?

生まれてから、今日この日までの間に、

誰かに暴力を振るったことはありませんか?
誰かをいじめたことはありませんか?
誰かを差別したことはありませんか?
自分が言われたら傷つくようなことを言ったことはありませんか?
誰かを仲間はずれにしたことはありませんか?
誰かの陰口を言ったことはありませんか?
誰かを見下したことはありませんか?
容姿で誰かをからかったことはありませんか?

もし、あなたがこのすべてにノーだと仰るなら、
僕があなたを信用することはないでしょう。

なぜなら、僕たち人間が、
他者をいっさい傷つけずに生きることは不可能だからです。
マザー・テレサやダライ・ラマだって例外ではありません。
(ちなみに僕はすべてが該当しています)

もちろん、その行為の動機が常に悪意であるとは言いません。
ほとんどの場合は、自分が何をしているのか、
その行為によって相手がどう感じているのか分かっていない。

だから後悔するんですよ。
あんなことはしちゃいけなかったんだって。

そして、その学習のプロセスを成長と呼ぶのではないか?

ここまでの話に同意していただけるのなら、
次もまた受け入れてもらえると思います。
それは、

人間は例外なく過ちを犯す生き物である。

言い換えると、人間である以上、過ちは不可避である。

そこで問題となるのが、
過ちに対して、
僕らは個人的に、また社会的にどう対処すべきなのか?

僕は法律の素人ですが、
個人の場合、賠償うんぬんより基本的なのは、
謝って、反省することだと思います。
あれは過ちでした、もうしませんって。
これなら幼稚園でも教えてくれていますよね?

そして過ちを犯した人を取り囲む社会としての僕らは、
相手が謝って、反省しているのであれば、
基本的には許すことだと思います。

もちろん、なんでも謝りゃいいってもんじゃありません。
体に不可逆的な障害を負わされたり、
愛する人を奪われた立場で相手を許すというのは、
並大抵のことではないでしょう。
(僕もできる自信がありません)

しかし、僕が今日、ここで皆さんとシェアしたい問題は、
過ちを許さない、僕らの社会の傾向です。

誰かが過ちを犯したが最後、
謝ろうが反省しようが、とことんまで追いつめるでしょう?
過ちの度合いに対して不釣り合いなくらい、
そこまでやるか? というほどに。

これにはネットなどの匿名で非難可能なからくりが最大限に利用され、
1対X(無限大の他者)による集団リンチが常態化している。

しかもこれは一党独裁型国家の政府主導ではなく、
日本の場合、例の自粛警察よろしく、
僕ら国民のひとりひとりが自主的にやっているんですよ。

これが何を意味するのか?

話をもどしましょう。

人間は例外なく過ちを犯す生き物である。
しかし、過ちは許されてはならない。

こうしたジョージ・オーウェルもびびる社会を、
僕たちは自主的に目指し始めているのではないか?
(北朝鮮や中国を悪く言えませんよね?)

許されない社会。

これには身近にも思い当たる節があります。

組織の隠ぺい体質が報道されるのは日常茶飯事ですが、
僕が実感しているのは、若い世代の消極性。
彼、彼女たちからは、
どうも未知のものを避ける傾向が感じられるのですよ。
一度学習した、慣れ親しんだ世界からは出ようとしないような。
換言すると、リアルよりヴァーチャルを好むような。

そんな疑問を教育関係のお客さまに投げかけたことが何度もあります。
そこで帰ってきた答えはおしなべて、

「みんな失敗を怖がっているんですよ」

僕は続けます。

「なるほど、失敗して痛い目に遭ったわけですね。
 じゃ、彼、彼女たちは、いったいどんな失敗をしたのですか?」
「いいえ、本人が大きな失敗をしたわけではありません」

・・・?

僕は最初、この会話の意味がよく分かりませんでした。
しかし、今では理解できて来たような気がします。

若い世代は、
過ちを犯した人に対する社会の反応から学習しているのではないか?

失敗(過ち)は許されない。
しかし人間である以上、それは避けられない。
だとしたら唯一有効な防御策は、行動を安全圏に限定すること。

ここでもう一度、
今これを読んでくれているあなたに質問させてください。

許されない社会で僕たちは幸せになれますか?

僕は個人的に、
誰もがジャン・ヴァルジャンになれる社会に生きたい。

そう心から願っています。

えーじ
posted by ととら at 11:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記