2021年11月04日

これもまた製造者責任

所得格差とは古くて新しい問題です。
それがコロナ禍でクローズアップされたせいか、
先日の衆議院選挙でも、
ほとんどの政党や候補者がその対策を公約に挙げていましたね。

そう、格差の少ない社会。
美しいスローガンです。

しかしこれが法人と個人の対立構造で説明されると、
僕はどうも首をかしげてしまうんですよ。
いわゆる法人税を上げて所得税を下げるって案ね。

だって巨大な組織対非力な個人だなんて、
あまりにも選挙受けしそうなステレオタイプじゃないですか?

ことの本質は簡単にいうと、所得分配の両極に位置する、
億万長者とホームレスのコントラストにあるのではないか?

そう、あくまで個人対個人のあいだに。

ってことはマジョリティの中産階級は無関係?

いや、それもまた違う気がします。

もう一度、おさらいしてみると、
格差とは経済活動の結果のことですよね?
つまりそれは個人や組織の努力の成果ともいえるわけです。
対する格差の少ない社会とは、
努力の結果が報われにくい社会といえなくもない。

そうなりません?

典型的な例としてアメリカを持ち出すまでもなく、
努力が報われやすいということは、
格差もまた大きくなりやすいということでしょう?

さてでは、このトレードオフをどう考えるべきか?

たぶん、それを語る前に、
僕らはメタレベルの議論を始めるべき時期に来ているのですよ。
闇雲にババを押し付け合ったってはじまらない。

富というのは本質的にどういうものなのか?
好ましい分配とはどのようにして行われるべきものなのか?
健全な経済とはどのような状況のことなのか?
豊かな社会とはどのような場所なのか?
(この地球上に理想のモデルはあるのか?)

いや、こういう問いの立て方はいささか学者向けかもしれません。
市井の僕らなら、

「私は頑張ったんだから、(結果を出したんだから)
 隣に座っている同僚より給料は多くて当然だ」

この言葉をどこまで深く掘り下げられるか?

そうした意味で、岸田首相のいう新しい資本主義とは、
政治家や官僚や偉い先生たちに丸投げするものではなく、
僕らひとりひとりが対峙すべき課題だと思うんですよ。

なぜなら、
個々の答えの総和が社会の性質を決定するのだから。

そう、いま、ここで、僕らが生きるこの社会とは、
紛れもなく、僕ら自身が作り出したものだった。

・・・ですよね?

えーじ
posted by ととら at 01:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記