所得格差とは古くて新しい問題です。
それがコロナ禍でクローズアップされたせいか、
先日の衆議院選挙でも、
ほとんどの政党や候補者がその対策を公約に挙げていましたね。
そう、格差の少ない社会。
美しいスローガンです。
しかしこれが法人と個人の対立構造で説明されると、
僕はどうも首をかしげてしまうんですよ。
いわゆる法人税を上げて所得税を下げるって案ね。
だって巨大な組織対非力な個人だなんて、
あまりにも選挙受けしそうなステレオタイプじゃないですか?
ことの本質は簡単にいうと、所得分配の両極に位置する、
億万長者とホームレスのコントラストにあるのではないか?
そう、あくまで個人対個人のあいだに。
ってことはマジョリティの中産階級は無関係?
いや、それもまた違う気がします。
もう一度、おさらいしてみると、
格差とは経済活動の結果のことですよね?
つまりそれは個人や組織の努力の成果ともいえるわけです。
対する格差の少ない社会とは、
努力の結果が報われにくい社会といえなくもない。
そうなりません?
典型的な例としてアメリカを持ち出すまでもなく、
努力が報われやすいということは、
格差もまた大きくなりやすいということでしょう?
さてでは、このトレードオフをどう考えるべきか?
たぶん、それを語る前に、
僕らはメタレベルの議論を始めるべき時期に来ているのですよ。
闇雲にババを押し付け合ったってはじまらない。
富というのは本質的にどういうものなのか?
好ましい分配とはどのようにして行われるべきものなのか?
健全な経済とはどのような状況のことなのか?
豊かな社会とはどのような場所なのか?
(この地球上に理想のモデルはあるのか?)
いや、こういう問いの立て方はいささか学者向けかもしれません。
市井の僕らなら、
「私は頑張ったんだから、(結果を出したんだから)
隣に座っている同僚より給料は多くて当然だ」
この言葉をどこまで深く掘り下げられるか?
そうした意味で、岸田首相のいう新しい資本主義とは、
政治家や官僚や偉い先生たちに丸投げするものではなく、
僕らひとりひとりが対峙すべき課題だと思うんですよ。
なぜなら、
個々の答えの総和が社会の性質を決定するのだから。
そう、いま、ここで、僕らが生きるこの社会とは、
紛れもなく、僕ら自身が作り出したものだった。
・・・ですよね?
えーじ