3月12日のお話の続きです。
実はちょいとディープなテーマなので、タイトルをThink togetherに変え、
皆さんの知恵を拝借させて頂きたいと思います。
僕のシンプルな理解を誤解を恐れず、ざっくり言ってしまうと、
第2次世界大戦の終わりからソビエトの自壊まで、
世界を2分する対立軸は資本主義と共産主義という、
いわば経済の形態の違いにセットされていました。
それが今や中国、ベトナムもこぞって市場経済を導入したとなると、
(これ自体、そもそもイデオロギー上の大矛盾だと思うのですが)
経済システムはグローバルレベルでの大統一が完了し、
残るは同じゲーム上での競争力のみが問題となる・・・
とはならなかったんですね。
先日お話した、
複数政党制国家とヘゲモニー政党制国家の間にある思想上の違いとは、
とどのつまり「自由へのスタンスの違い」だと思うんですよ。
西欧諸国をはじめ、先般のロシア非難決議に賛成した国々では、
自由こそが人類にとって幸福の基盤であるという、
固い信念を持っている人々が多い。
ところがヘゲモニー政党制国家は、この大テーゼに懐疑的なんですよ。
いや、むしろ自由は国家の秩序を乱し、結果的に人民を不幸に貶める、
そう考えているといっても差し支えないでしょう。
自由を制限するあまり、それを人権の弾圧だとする国際社会の非難に対し、
中国はアメリカを筆頭に西欧諸国の治安の悪さをもって反論します。
僕は自由主義に立っていると公言していますが、
かといって、自由を無謬の権利としてまで崇めてはいません。
なぜなら、自由とはある意味、
無秩序の同義語であるという意見に真っ向から反駁するのは難しいから。
たとえば、僕は自由と同じく、
LGBTQの人々の存在と権利を全面的に認める立場を取っています。
しかし、この範囲が人間を越えて、犬や猫など他の動物から、
昨今でいえばAIにまで広げられると、
正直、「いや、それはどうかな?」と首を傾げざるを得ません。
しかし、友人も恋人も、家族だってAIでいい、
だからそれに合わせて民法も改正すべきだ、
という意見を持つ候補者が国政選挙に立候補するまで、
あと10年はかからないでしょう。
(当選するかどうかは別として)
そしてこうした主張をする人から見れば、
リベラルな自由主義を標榜する僕といえども頑なな保守であり、
マイノリティの弾圧者と映りかねないのです。
シンガポールの建国の父、リー・クアンユーはかつて、
「わが国に野党の存在を許す余裕はない」と言い放ちました。
政治活動や報道の規制をはじめとし、
シンガポールが「明るい北朝鮮」とまで揶揄された理由の一つです。
では、国土がたった東京23区程度の面積しかなく、
食料自給率が10パーセント未満なことに加え、
水道水もマレーシアからの輸入に依存する都市国家で、
僕らが理想とするような日本やアメリカ並みの自由を開放していたら、
はたしてアジアの経済を牽引するまでに成長した、
今のシンガポールはあったでしょうか?
自由とは、どうも手放しで称賛できるものではないような・・・
そんな気がしません?
僕がいま皆さんとシェアしたいのは、
無秩序化しない、無責任にならない自由とは想定しうるのか?
という問いです。
100パーセントの自由か100パーセントの規制かという極論に陥らず、
どこで、どのように、どのような理由をもって両者の間に線を引くか?
この議論がウクライナの、ロシアの、ヨーロッパの、中国の、
そして僕たちの世界の差し迫ったミッションなのではないか?
僕はマジでそう考え始めているのです。
えーじ