2019年09月05日

たかが食材、されど食材

八百屋さんでトマトを手に取り、

「ああ、これはアンデス山脈南部の高地で生まれ、
 エルナン・コルテスがメキシコからヨーロッパに持ち帰って、
 世界中に広がったんだなぁ・・・」

なんて思いを馳せる人は殆どいないでしょうが、
ととら亭では料理だけではなく、
素材のひとつである個々の食材もまた取材の対象にしているのですよ。

それというのもこの食材、
あらためて向き合うと想像以上にディープなものでして、
時には遠い昔の話ではなく、
現代の、国際紛争の原因にすらなっていたりします。

その火種と言えば、
僕たち日本人にとってオレンジや牛肉以上にくすぶっているのは、
クジラではないでしょうか?

これ、僕もずいぶん前から気になっていたのですよ。

今年6月末、日本がIWC(国際捕鯨委員会)を脱退したのは、
耳目に新しいところですが、
この件、なにをそんなにもめてるの? 
と今さらながらに調べてみれば、
主食でもない、ひとつの食材(兼素材)から始まった議論が、
もめごとのデパートみたいになっちゃってるじゃないですか。

そこで発端から流れをざっと追ってみますと・・・

クジラの無秩序な捕獲が世界的に問題視されはじめ、
1931年のジュネーブ捕鯨条約、
1937年の国際捕鯨取締協定などが結ばれた後をうけ、
1948年に国際捕鯨委員会が設置されます。
その主たる目的は、
『国際捕鯨取締条約に基づき鯨資源の保存及び捕鯨産業の秩序ある発展を図る』

ふむふむ、それはご尤もな話じゃないですか。

だったのですが、その後は捕獲枠を決める基準が二転三転し、
結局、現時点で科学的に根拠のある基準を策定するのは難しい。
よって、しばらく捕鯨はやめましょう!
という方向に進んじゃった。

くわえて面倒なことに、この議論、計算式上のドライな話ではなく、
1972年にアメリカが国連人間環境会議で
商業捕鯨の10年間一時停止を提案したあたりから、
なんとなく外交カードの臭いがしはじめ、
やがてテーマが『鯨資源の保存及び捕鯨産業の秩序ある発展を図る』から、
『捕鯨をやめるか続けるか』という二元論的議論ならぬ、
論争にシフトしてしまいます。

このころになると舞台に上がる役者も政府・水産関係者だけではなく、
グリーンピースなどの環境NGOや宗教団体まで加わって、
さながらバトルロイヤルの様相を呈して来てしまいました。

僕がこの泥仕合を見ていて溜息をついたのは、
『野蛮』とか『残酷』という、
本来の議論上は関係のない言葉が飛び交いはじめたからです。

そしてその根底で見え隠れしているのが、
『われわれこそが人類のスタンダード!』と信じて疑わない、
オールドファッションな自民族至上主義とあっては、
あんまりお付き合いするのもなんだかなぁ・・・
という気がしていました。

僕は政治家でも文化人類学者でもありませんが、
旅の食堂という仕事で世界をうろついているうちに学んだことがあります。

文化というのは個々の要素で比較こそできても、
その結果は単なる差異であって、
定量化して順位を決められるようなものではない。

つまり文化に『先進』も『野蛮』もない。

これは取り立てて目新しい考え方ではなく、
社会人類学者・民俗学者のクロード・レヴィ・ストロースが、
(僕のアイドルのひとりです)
1962年の著書『野生の思考』の中で文化を構造という言葉で言い換えながら、
上から目線の西洋中心主義をけちょんけちょんにしていました。

そう、個々の人間に、人種に、民族に優劣がないように、
人間の産物である文化にもまた優劣はない。

『残酷』という言葉も、こと相手が人間以外の生物に対して使われると、
僕には場当たり的な人間中心主義の臭いが感じられるのですよ。

だってクジラを殺すのは残酷だけど、
先進国のスーパーマーケットで並んでいる牛、豚、鶏はノープロブレムって、
どんな理屈で正当化できます?
食肉工場の屠殺現場で繰り広げられている光景は、
残酷という表現に値しないのでしょうか?

人間の食とは、基本的に他の生物の命を奪うことによって成り立っており、
その対象は文化によってさまざまです。

たとえば僕の知る限り、日本では犬を食べませんが、
韓国、中国、ベトナム、インドネシアでは食べます。
だからと言って、日本が進歩的な文明国であり、
他の4カ国はかわいい犬を残酷にも食べる野蛮な国だと、
僕は思わない。

そこにあるのは単なる食文化の差異であり、
優劣、善悪、先進と野蛮のような、二元論的対立が入り込む余地はない。

生物資源としてのクジラを論じる時、この文化の本質を離れると、
そこには国家的、または民族的視野狭窄というコワイ落とし穴が待っています。
その意味では、
仮にIWC加盟国による多数決で『民主的』に決めたことであっても、
それが文化優劣論の土台の上にあったのであれば、
その結果も、その決定プロセスを続けることも、
長期的に見て、人類全体の利益にはあまり貢献しないでしょう。

たかが食材、されど食材。

すべての関係国がもう一度おなじテーブルにつき、
外交カードのひとつとしてではなく、
文化の本質を直視した上で継続的資源の使用と保全、
そして配分の議論をすることを、
僕は願ってやみません。

えーじ
posted by ととら at 22:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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