2021年04月07日

古いやつとお思いでしょうが・・・

「いらっしゃいませ」

とある日のランチタイムで。
25歳前後の男性のお客さまがご来店されました。

「おひとりさまですか?」
「・・・・ハ、はイ」

そしてカウンターにご案内すると、
しばしディナーメニューのご案内を手に思案中。
そこで、

「ランチメニューは黒板の2種類からお選びいただけます」
「・・・・は、ハい」

ん・・・この間と発音は?

と思って英語でメニューを説明すると、
彼はすらっとよどみなく応えてきました。

なるほどね。

このパターン、ここ数年では珍しくないんですよ。
旅行者ならともかく、滞在歴の長いモンゴロイド系外国人の方は、
ファッションセンスも近いので、
一見しただけでは国籍が分からないことが珍しくありません。

そう、僕らの違いはソフトウェアだけで、
ハードの部分はほぼ一緒ですからね。
そこで食事が終わったときに、

「どちらからいらっしゃったのですか?」
「香港です」
「そうですか、僕も何度か行ったことがありますよ。
 今回はお仕事ですか?」
「そうです。IT系の会社で働いています」

この受け答えは示唆的でした。
こうしたやり取りをした場合、
大陸側から来た方は、たいてい「中国から来た」と答えてきますが、
香港の方がそういうことはまずありません。
2016年に香港でクッキングクラスに参加したとき、
講師のジョイスは自分は香港人であり、
食材も Made in Hong Kong だと言っていたのを思い出します。

そこかしこで感じたのは、
「われわれは中国人ではない」という、
香港人としてのアイデンティティの主張。

「香港ですか、いまは厳しい状況ですね」
「・・・・・・・ええ・・・」

僕の言葉を受けた彼は英語の会話であるにもかかわらず、
来店したときと同じか、それ以上の間をおいて応えてきました。

「僕はあなたたちの主張にシンパシーを感じていますよ。
 香港に自由を」

彼らと僕ら。
人間としては同じですが、
ソフトウェア、つまり文化の部分は大きく異なります。
そして僕はその違いを基本的に認めている。
自分と同じではないからという理由だけで否定はしません。

しかし、認めつつも近寄らないものがあります。

それは『無謬の存在』。

高名なところでは君主、教祖、政治家から身近な社長や家長まで、
批判から完全に免責された存在とそのお取り巻きには、
可能な限り距離を取るようにしています。

理由はいわずもがな、
自由を標榜する僕にとって、
近寄っていいことはひとつもないから。

いや、僕のミクロな理由に限らず、
人類史に刻まれた大惨事の中心には、
たいていこの『無謬の存在』とその盲信者がいるでしょ?

これは右派か左派かのようなイデオロギー上の問題じゃないんですよ。
(だってヒトラーとスターリンは思想的に対極でも、
 しでかした結果はほとんど同じじゃないですか?)

立場が逆だったら、僕はどうするだろう?

彼を見送りながら、
僕は旅してまわった香港や中国の街々を思い出していました。

僕らの違いは文化的な面だけ・・・なのか?
それとも・・・

批判されない人、批判が許されない組織。
それは外国の個別の事情ではなく、
僕らの身近な存在でもあるんじゃないのか?

いや、もしかしたら、
僕らはすでに、その当事者の一人なのかも?

思えば75年前のこの国は、
現代の中国や北朝鮮とあんまり変わりませんでしたからね。

社会は自由であるべきだ。
ではその自由とはなにか?

このメタレベルの議論は、今でも政治の場に限らず、
学校や家庭でやっても無駄ではないような気がします。

え? 哲学なんてのはもう流行らない?

なんですけどね。

えーじ
posted by ととら at 21:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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