2021年05月24日

善と悪のその先へ

ニュースのヘッドラインに『紛争』の文字があると、
どうしても目に留まってしまいます。

それは僕たちにとって遠い世界の話ではなく、
昨年の暮れから続いたアゼルバイジャンとアルメニアの紛争のように、
かつて訪れた場所であり、
かつ、これからも訪れるであろう場所でもあるから。
(ときには出会った人たちの顔も思い浮かびますし・・・)

そしてもうひとつ気になるのが、
そうした紛争がおしなべて善悪の二元論で語られていること。

たとえば今でいうと、
イスラエルとパレスティナの紛争が連日のように報道されていますが、
そのほとんどが圧倒的軍事力を背景としたイスラエルの『無差別』攻撃の非難か、
『テロリスト集団』である、
ハマス(武装闘争を是とするパレスティナの政党)
の原理主義と暴力性の非難に軸足を置いたものでしょ?

僕は個人的にそのどちらの立場も取ってないんですよ。
いや、正確にいうと取れないのです。

なぜなら、
ハマスがどうして過激な武装闘争をやめないのか?
そのハマスがなぜ選挙でときにパレスティナ自治政府の与党となりえたのか?
アラビア半島を構成する国々はどのようにして『建国』されたのか?
イスラエルとはどういう国なのか?
そしてイスラエルを『建国』したユダヤ人とは、
世界各地で歴史上どのような扱いを受けてきたのか?

ここまでコンテクストを広げると、
む〜・・・と、うならざるを得ないから。

2年前、レバノンを訪れた際、僕は旅をするリスクの説明で、
「あそこはもめ事のデパートなんですよ」と言いましたが、
補足するならそれは何でもあるという意味を超えて、
その何でもあるものが独立しているのではなく、
密接に絡まりあっている、ということなんですよ。

ですから目の前の事実だけを切り取って、
自分たちの価値観に基づいた善悪二元論のジャッジを下したところで、
何も解決しないどころか、
火に油となる可能性が高いと僕は考えているのです。

反対にコンテクストを広げたレベルでの熟考は、
ともすれば他者の問題の解決に貢献できるだけではなく、
たとえば、日韓、日中、日露関係など、
自ら抱えた問題の解決にも役立つのではないか?

意見が対立した時、
暴力的な解決方法を正当化する最もポピュラーな理由(言い訳)が、
相手(加害者)が完全に間違っており、
自分たち(被害者)が完全に正しいという極端な善悪二元論です。

故にこれを携えて紛争に介入すると、
一見、調停が目的のように見えても、結果的には参戦状態に陥り、
泥沼をより深めることにしかなりません。(よね?)

紛争の解決にはどれだけ双方の動機(理由)を掘り下げられるか、
その洞察力と理解力、
そして両者への共感する気持ちがキーなのではないか?

ま、かくいう僕にそのスキルが欠けているから、
む〜・・・と、うなっちゃってるんですけどね。

えーじ
posted by ととら at 09:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/188698442

この記事へのトラックバック