僕は16日間に及ぶ入院生活をかなり楽しんでいました。
特に見晴らしのいい談話室で缶コーヒーを飲みながら、
(軟禁状態で唯一の『売店』が1台の自動販売機だったんですよ)
お気に入りの音楽を聴き、
本を読んだり、ものを書いたりする時間は、
さながらちょっとしたバカンス気分。
はぁ〜、いいねぇ、こういうのも。
左足はニーブレイズで棒状に固定されたお荷物ですし、
移動は松葉杖を使わなければできませんでしたけど、
それを補って余りある自由を満喫していたのです。
そうした場違いな入院患者が物珍しかったのか、
談話室にいると、よく他の患者さんや医療関係者から話かけられました。
そこでまた入院よもやま話で盛り上がる。
整形外科病棟は基本的に治る方向へ進む人が多いので明るいんですよ。
しかし、そんなにぎやかな会話の外で、
部屋の隅にひっそりと座っている女性がいました。
いや、正確に言うと、座っているというより、
置かれていると言った方が近いかもしれません。
なぜなら彼女は先天的な形成不全で、
四肢が2歳児程度までしか発育していなかったのです。
ですから自分で移動することはいっさいできず、
談話室に来るのも看護師さんに運んでもらうしかありませんでした。
僕は彼女に気付いてから、
にぎやかな会話には加わらないようになりました。
僕たちは治りつつある。
でも彼女は・・・
ここでも僕は病室と同じように考え始めたのです。
なぜ僕は彼女にできないことができて
なぜ彼女は僕にできることができないのか?
この自問自答は決定的でした。
身体的差異の原因は医学的に説明できても、
当事者が納得するに足る理由とは、
遺伝子異常などという無味乾燥な用語でないでしょう。
そして『現在の自分とは過去の自分の自由選択の結果である』という、
因果律的な説明は、完全に無効ではないものの、
極めて限られた状況でしか適用できない。
彼女の後姿を見ていて、僕はそう認めざるを得なかったのです。
そう、平等とは、スポーツや学力試験など、
特定の条件下で限定的に実現可能な『競争の土台』であって、
それとてまた僕らが無邪気にイメージしているほど、
完璧なものではない。
僕たちは生れてまもなくから様々な種類の競争環境に晒され、
ふるい分けされつつ、能力別グループに分割されてゆきます。
これは記憶に新しい最近のものであればあるほど、
なんだかフェアに見えなくもない。
自分のやった努力を覚えていますからね。
しかし思い出せない原点に遡るにつれてリアルになるのは、
個人の努力はおろか、選択の自由意思すら及ばない、
なまなましい肉体とアプリオリな知的能力の差なんですよ。
そしてこの最初の競争の結果が、
その後の競争と個人の人生に決定的な影響をおよぼす。
ではここでもう一度、問い直してみましょう。
この原初のスタート地点における平等とは何なのか?
僕はレアなケースを持ち出して、
拡大解釈した極論をぶち上げるつもりはありません。
なぜなら個人の意思の及ばない先天的な決定事項は、
肉体的な要素にとどまらず、
たとえば性格を構成する部分にもすそ野を広げているからです。
一般的に、性格とか気質、才能などと呼ばれる、
個人を他者と区別するメンタルな属性は、
個人が意図的に獲得したものではなく、
また、厄介なことに、当の本人が嫌だと思っても、
本人の努力では消し去れないものでしょう?
(そうじゃないなら僕はもっとナイスガイになってますよ)
たとえば、今の日本では、
自己表現が苦手な人が不利になるケースが少なくありません。
こうした人は受験や就職の面接のときに、
(恋愛関係においても!)
並々ならぬ苦痛を味わっていることでしょう。
また行動のペースがゆっくりしている人も、
すべからくスピードが求められる現代社会では苦労が絶えないと思います。
こうした『口下手』とか『のんびり屋』などと言われる性格の属性の差は、
試験や就職における、
平等のパラメータとして取り上げられることはありませんが、
それがさまざまな競争の渦中で大きなファクターとなることは、
皆さんもご存じのとおりです。
そして、繰り返しになりますが、
そうした気質(性格)は、物心つく前に、
本人の意思の彼岸からやってきたものでしょう?
(少なくとも僕は自分で選んだ記憶はないです)
このアンフェアな、しかし、いかんともしがたい要素は、
平等の舞台の上でも、
性格、気質、才能などという言葉に置き換えられると中和され、
反対に、あって当たり前の単なる差異と見なされてしまいます。
そうなると最後に残るのは、
人間の社会は不平等な点においてのみ完全に平等である。
こうした身もふたもない皮肉な結論だけなのではないか?
む〜・・・、
もうちょっと夢のある話はできないのかね?
そこでない知恵しぼって、
もう少しこの平等ってやつを掘り下げてみました。
to be continued...
えーじ
2021年06月04日
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個人的には、「現在の自分とは過去の自分の自由選択の結果である」というのは合っていると思うのです。
ただ、スタート地点「ゼロ点」と努力に対する「係数」が各人で異なっているというだけで。
「ゼロ点」については、是正が可能なものに関しては至急平等にするべきだと思うし、現在は平等化が不可能であるならば、テクノロジーはそれを平等化するように進化すべきだとも思うのです。
一方で、目指す方向が変われば、当然「ゼロ点」や「係数」も変わります。自分に有利な方向で努力するのも戦略ですし、不利でもその方向を目指すのも本人の意思です。
私は、理想的に「ゼロ点」の平等化が達成できたのとして、その上での自由選択の結果としての違いは、許容すべきものと思っています(実現できない仮定であるのかもしれませんが)。
今回の「彼女」にできないことは多々あるのでしょうが、一方で「彼女」にしかできないこともあるのではと思うのです。もちろん、それが「彼女」が望むものであるのか否かは別ですが。
さて。やはり少し長くなってしまったので、今日はここまでで。駄文ご容赦ください。
厄介な議論に参加していただいてありがとうございます。
先天的な決定因子と自由意思、そしてその結果。
それぞれについての評価と相関関係を考えてみることは、
マクロな意味において、
あるべき社会のビジョンを描く際に避けて通れないものです。
ミクロな意味では、
個人の他者に対するスタンスを決める重要なファクターにもなるでしょう。
もうお気づきのとおり、『平等』という言葉のゲートの先には、
政治や経済というマクロな分野だけではなく、
福祉や教育、医療などの身近なフィールドが広がっています。
ですから僕としては、
より多くの人にこのゲートをくぐっていただけたら幸いです。
(ひとりで太刀打ちできる相手ではありませんので)
頂いたご意見からは別の問題も見えてきました。
先天的レベルの不平等を解消するもっとも近い解決方法は遺伝子治療だと思われますが、
これはともするとマイナスをゼロにするだけではなく、
プラスをスーパープラスにする技術でもあります。
ホーキング博士が生前暗示したように、
僕らはそう遠くない未来に、スーパーヒューマンと対峙する日が来るかもしれません。
さらにAIの擬人化がより進めば、
人間の定義というさらに厄介な問題にも直面せざるを得ないでしょう。
(ブレードランナー2049で描かれた世界のように)
しかし近未来に踏み込まなくても、
いびつな平等の土台の上でさえ可能なパラダイムシフトがあります。
それは、
〉今回の「彼女」にできないことは多々あるのでしょうが、
〉一方で「彼女」にしかできないこともあるのではと思うのです。
この言葉に要約されているでしょう。
Think together.
先を続けましょう。
平等とは、実は難しい概念で、場合によってはその対岸に「違い」や「個性」といったものが現れてくることがあるとも思います。
極端な例では、「女性は子どもを産めるけれど男性は産めない」「入社試験で女性よりも男性の合格率が高い」、これらは不平等なのか、違いなのか。等々。
この他にも様々なグレーゾーンがあり、どこからを平等とすべきかは、きっと各個人によって異なるのだと思います。
平等を巡る議論の根幹には、@どこからを平等とすべき範囲にするのか、A不平等となっているものをどうやって解消するのか、という2段階があるのだと思うのですが、ややもすると@を飛ばしてAのみが議論の対象になっている感じがします。
@が違っていることを認識しないと議論ができないと思うのですが、このあたりはどうでしょうか?
また、マイナスをゼロにする、プラスをスーパープラスにするという話では、きっと両方が起きるのでしょうね。これは、人間がどれくらい善良・邪悪であるのかという議論になりそうですが、それを含めて多様なのが、良い悪いではなく現在の人間社会なのだと思うので。
善良であることを期待したいし、自身もそうありたいと思うのですが、絶対の自信はありませんね…。
お気づきのとおり、『平等』という言葉は、とてつもない問題の広がりに入る、
ひとつのゲートでしかないんですよ。
その先の世界を俯瞰するためにここまでの話をざっくり整理しますと・・・
『合法的な努力の結果による格差が是認される』ことを前提とした場合、
不平等とは以下の状態と定義できると思います。
1.努力する能力に本人の意思が及ばない制限がある場合、
2.努力する環境に本人の意思が及ばないばらつきがある場合、
3.努力の評価が評価者や環境によってばらつきがある場合、
4.努力が外圧によって制限を受ける場合、
(まだまだあると思いますが、ここではこれくらいにしておきましょう)
また、『努力と結果』式問題のほかに自分のナマの在りよう、
たとえば性や信仰の自由などが社会的に認知されていない状況も加わると思います。
そして洗い出された不平等状態を解決可能なものとそうでないものにふるい分け、
解決可能なものは解決し、
現時点で解決手段のないものの暫定的な対策を講じる。
この荒っぽい定義とフローだけでも、その範囲の広がりにはめまいを覚えますが、
さらに『平等』という言葉が使われるコンテクストで対概念となる、
『差別』や『格差』という言葉が加わると、
2〜3人で奮闘したところで歯が立たないのは明らかだと思います。
『差別』と『区別』はどう違うのか? とか、
『差異(個性)』と『不平等』はどう違うのか?
はてや『多様性』とはとどのつまりカオスのことじゃないか!
という意見への合理的な説明はどうするのか?
などなど・・・
これらの議論は時と場所を超えて続けられているにもかかわらず、
明確な答えに達したという話を僕は知りません。
さらにダメ押しとして、
『格差』を認めたテーゼは『平等』の思考の線上で常に問題化され得るという、
出口のないループも待っています。
さて、ここで白旗を上げるとチープなペシミズムに陥ってしまいますが、
まず『自分なりに考えてみる』、
そして暫定的でもいいから『自分なりの意見を持つ』ことが、
全体をあるべき姿へ進める大きな一歩になるのではないか?
僕はいま、そんな風に考えているのですよ。
(というか、これが今の僕の限界です)
答えはない。
考え続けることが答えなのだ。
ん〜、これじゃ不平等の当事者は納得しないだろうなぁ・・・
その上で、私なりの意見を書いてみたいと思います。長いので、くどくなってきたら、適当に切ってもらって構いませんので(笑)。
前述の彼女の例をベースに話を進めたいと思います。
私は、彼女の状態そのものを「憐れん」ではいけないと思っています。それは、違いであり、(適当な表現でないかもしれませんが)個性という多様性であり、上下関係ではありません。ここまでは、正しさではなく、ありのままを認めるべき前提条件です。
不平等が生じるのは、彼女が何かをなそうとした時からです。「出発点」の違いに由来する不利があったのならば、「憤る」べきはそこです。
さて、お気付きだとは思いますが、彼女に限らず、全ての人は当然「異なって」います。そのため、「出発点」は多少の違いはあれ、みな違います。
その違いを吸収するため、(いろいろ話題の)オリンピックでも男女別や体重別などにクラス分けがされて(パラリンピックではもっと細かく分かれて)います。とすると問題は、
@クラス分けや配置が適切になされているか
Aクラスが違った場合に同じ成果を求めて達成可能か
になるのかなと思います。
@については、難しいですが、クラス分けの前提の「正義」をどう熟成するかではないでしょうか。目は粗すぎても細かすぎても不都合は生じるので、できる限り「正しい」共通見解を試行錯誤していきたいと思う問題です。
Aについては、書いていただいたように「解決可能なものは解決し、現時点で解決手段のないものの暫定的な対策を講じる」につきるのだと思います。そのために、制度・技術が発展してほしいと思います。ただ、「同じ成果を求め」ようとすることが、そもそも正しくないのかもしれません。
個人の「努力の結果による格差」は是としたいのですが、それは単なる上下関係ではなく、多面的に見た時にいろいろ評価されるべき「格差」でもあろうと思います。
解決可能なものは解決するのは当然。現時点で解決手段がないものについては、出発地点の不利を自認してでもその道を進むのか、自らに有利な出発地点が得られるものへ変えていくのか、その戦略を立てて実行できる自由を個人が持てることこそが、まずは大切だと思っています。
僕たちは、
平等に個人的な努力が報われ、
平等に素の個人の在りようが認められた上で、
強者と同様に弱者を許容する社会を目指すべきではないのか?
こうなるのかな、と思います。
しかしこれはあくまで大方針であって、
暫定的にでさえ『答え』にはなっていません。
なぜなら、たった4行の短文を構成する言葉でさえ、
平等とは? 個人とは? 個人の在りようとは?
社会における強者と弱者とは?
などなど、メタレベルの議論を始めたら、
大きな集合で合意形成をするのは難しいでしょう。
また「目指すべき」というからには、
現在はそうなっていないという厳しい現実があります。
今回のお話は僕の入院の時の経験を入り口にしましたが、
第3世界を旅している時は、
より生々しい現実を突きつけられることが少なくありません。
白状しますと、
僕はそうしたとき、
つねづね自分に向けた説明を考えていました。
真冬の路上で裸足の子供がうずくまっていても、
人買いにすらそっぽを向かれ、頭を抱えて座り込む男を見ても、
エアポートホテルの裏手に広大なスラムが広がっていても、
しょうがないんだよ。
そう呟けば納得できる言い訳を。
しかし、今さらいうまでもなく、
僕の拙い試みは成功した試しがありませんでした。
そこで一緒に考えてもらえたら、と思ったのです。
もちろん、今の社会でいいんだ!
というのもいい。
僕の問題意識が唯一正しくて、他が間違っているとは思いません。
ただ、これを読んでいるあなたが、
議論に参加してくれたよせなべさんのように、
一緒に考えてくれるなら、
それは、あるべき社会へ向けての一歩になるのではないか?
(たとえば自分の意見を持って次の選挙の投票所に行くとか・・・)
そしてその積み重ねから生まれるものは、
僕が使うその場限りのエクスキューズではなく、
不平等な境遇から抜け出た人々の笑顔なのではないか?
そう信じて、
またいつか、このテーマを掘り下げてみたいと思います。
ありがとうございました。