2021年08月18日

外国という鏡、日本の顔

僕らが旅をするときの大前提、
それは『ここは外国だ』という認識です。

で、ここでいう『外国』とは、
言葉だけではなく社会構造と価値観が異なる場所のこと。

え? そんなの当たり前?

と仰るなかれ、
ことはそう簡単じゃないケースが多いんですよ。
それにこの大前提、
僕ら無学のバックパッカーのみならず、
優秀な政府や官庁のお歴々もまた例外ではありません。

これを見誤ったために犯した大失敗、
古くは植民地統治(皇民化政策とか)、
近代では緑の革命などいくらでもあります。

旬な話ではアフガニスタンの民主化。

結局また20年前に戻っちゃったでしょ?
莫大な予算を投下し、多くの人命が失われたにもかかわらず。

僕はこの流れを傍観していて、
(事実上、入国できなかったもんで)
レバノンとそっくりだな・・・と思っていました。
あそこも、もめごとのデパートになって収拾がつかないし。

これと似ているのが南アフリカ。
エチオピアやスーダン、ソマリアもそう。

じゃ、何がその共通点なのか?

それは富と権力の分配システムが、
資本主義を導入した民主主義国家とは根本的に違うということ。

部族社会とは、
小は家族、中は親族、大は部族の入れ子構造になっており、
このヒエラルキーに沿って、
(レバノンでは宗教宗派ごとに)富と権力が分配され、
それがそのまま個人の社会的なアイデンティティのレイヤーを構成しています。
(就職や結婚も一般的にこのフレーム内で行われますし)

彼らには僕らにとって自明の『日本と日本人』みたいな、
国民国家という概念がないか、あっても希薄なんですよ。
ですからアフガニスタンでも、
パシュトゥーン人であるとかタジク人であるという意識はあっても、
アフガニスタン人というのはだいぶぼやけた概念なんじゃないかな?

そうなると、いわゆる『お国のために』というような、
挙国一致のイデオロギーは成立しにくい。
だから数と装備の質で優位だったにもかかわらず、、
タリバンを前にした正規軍の逃亡兵が後を絶たなくなってしまった。

で、そのまた逆も然り。

たとえばケープタウンで、
タウンシップに入るスタディツアーに参加した時のこと。

アパルトヘイトのレガシーともいえるタウンシップは、
治安が悪く、一般的に僕らのようなよそ者が入れる場所ではありません。
そこでガイドは当然、タウンシップの住人に限られます。

僕らがケープタウンで最大級のタウンシップ、ニャンガに入るとすぐ、
住民が次々とガイドに挨拶してきました。

「へぇ、君は知り合いが多いんだね」
「え? ああ、あいつは弟の友だちで、さっきのは従妹の夫ですよ」

この調子でほんの10分ほどの間に声をかけてきたのは、
3〜4人じゃ済みません。
それもちょっとした知り合いという雰囲気ではなく、
彼らは明らかに『とても親しい』間柄でした。

これが僕らの社会とどれくらい違うか、
皆さんご自身の生活と比べてみればはっきりするでしょう。
たとえば今朝、家を出てから学校や職場に着くまでの間で、
いったい何人と挨拶を交わしました?

次に僕は悲惨なスラムであるタウンシップを垣間見て、
ガイドの若者にこう訊いてみたのです。

「君は英語が堪能でガイドのスキルも高い。
 収入もそれなりにあるだろう。
 そこでここから出て、街の中心に住もうとは思わないかい?」

この時の彼の反応は予想外のものでした。

「え? 引っ越す? ここから?
 あり得ないですよ。だってそんなところへ行ったら、
 ひとりぼっちになってしまうじゃないですか!」
「そうか、なるほど。タウンシップは部族ごとにあるんだね」
「そうです。だから街の中心だけではなく、
 別のタウンシップに移ることもまずありません」

彼と話していた時も、
南アフリカ人としてのアイデンティティの希薄さを、
僕は感じていました。
彼らはあくまでズールー人やコーサ人やソト人であって、
南アフリカ人ではないんですよ。

こうした文化圏に構造矛盾を起こす、
欧米型の近代国民国家や民主主義というフレームを力づくで押し付けても、
期待した結果が出ないのは当たり前じゃないでしょうか?

8月15日は過ぎてしまいましたが、
欧米型統治の成功例として持ち出される76年前の日本と、
部族社会がほとんどを占めるアラビア半島、
アフリカの国々は社会の基本構造がまったく違う。

そして正直なところ、物質主義の魅力には反応していても、
彼らが僕らと同じ社会構造を望んでいるとはとても思えない。

アフガニスタンが、南アフリカが、
これからどこへ行こうとしているのか?

僕らもまた、
民主主義と資本主義が世界で最も優れた社会システムであるという、
頑なな優性思想の殻を破り、
もう一度、他の文化の在り方に目を向けるべき時が来てるのかもしれません。
(単純に数がモノを言う民主主義は人口構成に偏りのある多民族国家では、
結果的に封建主義のような状態にならざるを得ないし・・・)

それはけして民主主義と資本主義を捨てろという意味ではなく、
異質性を師としてそこから率直に学ぶことが、
僕らの社会をあるべき未来へ導く、
一条の光になるのではないか・・・

と僕は考えているのです。

アフガニスタンという鏡に映った日本の顔が、
僕らひとりひとりに、どう見えているのか?

僕がまず知りたいのは、そこなんですよ。

えーじ
posted by ととら at 21:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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