最近、図書館通いを始めて痛感したこと。
それは「知の偏り」。
僕らの来館目的は主に取材前の下調べですから、
うろつく書架は主に歴史や地理、旅行、それに料理。
そこには地域ごとの蔵書量に驚くほどの差があるのですよ。
まず目に入るのはおかしなカテゴリー。
アメリカ、フランス、イタリアなどと同じ階層に、
アフリカや中東、南米があるじゃないですか。
国と大陸(地域(州))が同列にされちゃってる。
そして圧倒的なのはそのボリュームの差。
アフリカには54の主権国家があるにもかかわらず、
書籍量はフランスやイギリスの1/10程度しかない。
料理に関してならその差はもっと大きくなります。
試しにフランス料理と、
たとえばモザンビーク料理の文献数を比較してみて下さい。
たぶん100対1くらいの比になるんじゃないかな?
ま、これは今に気付いた話ではなく、
取材前の資料探しが難航する原因でしたからね。
コーカサス地方なんて、専門書はなきに等しい状態だったし。
今回、あらためて危うさを感じたのは、
その数少ないアフリカや中東などに関する本の著者が、
おしなべて欧米人か日本人であること。
これって、よくよく考えると怖いことだと思いません?
なぜなら、僕らが持っている知識やイメージは、
当該文化圏から直接発信されたものではなく、
そのほとんどが別の文化圏のフィルターを通したものなのですから。
そして権威に従順な優等生である僕らは、
それを事実・真実として疑うことなく受け入れている。
これは立場を変えるといかに違和感の強いものであるか、
お分かりいただけると思います。
たとえば日本とは、日本文化とはなんぞや?
という世界に向けた情報が日本から日本人が発信したものではなく、
アメリカ人やドイツ人が外国からしたものばかりだとしたら?
そしてそれを受け取った他の外国の人が、
「なるほど日本とは、日本文化とはそういうものなのか。
分かった!」
となっていたとしたら・・・
どう思います?
僕はこの透明化したバイアスは書籍に限ったことではなく、
テレビや新聞などのメディアから、
ネット空間に飛び交う情報まで遍く行き渡っているように見えます。
その結果の代表例が、
「イスラム教徒 = テロリスト(怖い)」というイメージでしょう。
ハリウッド映画でも「ムスリム = 悪役」は定番ですしね。
僕らが自らを賢いと自負しているのであれば、
まず知っておくべきは、判断材料の情報確度ではないか?
そして物事を多角的に見るパースペクティブは、
歴史や英単語の丸暗記以上に大切なのではないか?
中東に限って言うなら、
たとえば古くは十字軍を、近代でいえばアラビアのロレンスを、
アラビア半島に住んでいる人たちはどう考えているのか?
スレイマン・ムーサの『アラブが見たアラビアのロレンス』や、
マアルーフ・アミンの『アラブが見た十字軍』は、
数少ない日本語で読める、視野を広げるきっかけになると思います。
どちらが正しいか?
という二元論的ジャッジのためではなくてね。
えーじ
2022年02月01日
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今も母と会う度に「早くととら亭の○○が食べたいね〜」と話しています(笑)
この記事を読ませていただき、私も大変共感しました。
昔と比べると今の方がインターネットの普及も影響してはるかに情報に手が届きやすい環境になりましたし情報そのものの量も増えました。でもその代わりにといったら変かもしれませんが、人間の情報に対する探究心やクリティカル・シンキングといった部分は昔と比べると下がってしまった気がします。
利便性が上がったことによる弊害なのでしょうか。
手に入りやすくなるからこそ人間側の努力がおろそかになるというか。上手く言葉にはならないのですが昔の方が人々の情報に対する欲、そしてそれを自分の頭でしっかり咀嚼して検証するという姿勢があったような気がしています。
とはいえ、第二次世界大戦の時には大本営の発表を鵜呑みにする国民が多かったわけですから、昔の方が、と一概には言えないのかもしれません。
図書館の例、読んでてハッとしました。
情報を自分の頭で検証をして理解する、いわゆるCritical Thinkingが今こそとても大切なのだろうと改めて思わされました。
長くなりましたが、えーじさんもともこさんも引き続きお体に気をつけてお過ごしくださいませ★
クリティカル・シンキングについて言うと、
まず白状しなければならないのは、
僕の場合、批判の矛先が自分に向いているということです。
何にもまして信用できないのが自分なんですよ。
若かりし頃はこうじゃなかったんですけどね。
特に40歳を過ぎたあたりから、自分を怪しく思い始めています。
そしてそれが拡大してきたのは、本を書いていた時かな?
経験以外を書いた部分では可能な範囲で事実確認していたんですけど、
参考文献そのものの裏が取れなくてね。
ことネットの世界はコピーのコピーみたいな情報ばかりで、
そもそもオリジナルがあったのかどうかすら怪しい。
テレビで放送されたからといって、
本に書いてあるからといって、
学校で習ったからといって、
それが事実(真実)だと、どうして言えるのか?
こうした緩い土台の上で成り立っている社会の危うさが、
最近みょうに気になってね。
いい加減な僕がいい加減だと思うくらい、いい加減に見える。
旬なネタではコロナ禍で飛び交う言説に目を通すと、
断定的なもの言いをしてると思ったら、
ネットを漁って寄せ集めた情報のリミックスじゃん!
なんてのばかりでしょ?
考えているようで考えていない。
従順にアノニマスの情報を飲み込んでいるだけ。
今回、図書館を例に挙げたのは「健全」と思われる場所ですら、
透明化したバイアスから無縁ではないと思ったからです。
人、文書、映像、そのソースが何であれ、
重要な判断の材料にするのであれば、情報確度を測り、
事実と意見と願望を混同せずに理解することが、
今の僕らに求められているのではないか?
1日でも早く、この長いトンネルを抜けるためにもね。