先日終わった安倍元首相の国葬。
この件を巡ってはさまざまな議論が起こりましたけど、
なかには前向きなものもあったのではないか?
と僕は考えているのですよ。
それは「話すべき相手」が見えてきたこと。
これまで社会的な問題意識の高い人は、
「政治を変える!」や「自民党を壊す!」
というスローガンを謳うのが常でしたが、
どうやらこれが反対に、
「政治が変わらない」大きな原因なのではないか?
そう気付き始めた人が増えてきたような気がしません?
言い換えれば、
私利私欲で社会を牛耳る悪徳政治家に立ち向かう、
自由と正義の民衆・・・というステレオタイプが、
政治を、いや、社会を変えられない遠因のひとつなのではないか?
そう、ここで抜け落ちているのは、
スーパーヴィランとされる悪徳政治家といえども、
合法的な選挙で選ばれたのだという事実。
さらに日本は代表民主制ですので、
その悪徳政治家は、
数千から数万人の意見を代表する人物でもある。
けして中世からデロリアンでやってきた世襲君主ではない。
ですよね?
なので、「岸田首相、けしからん!」
と国会前でシュプレヒコールをあげても効果は薄い。
なぜなら岸田さんを選挙で当選させた人々が地元で、
「いやいや、文雄君、それでいいんだよ」と言っているのですから。
ここから考えると、話すべき相手は政治家というより、
むしろ同じ市民なのではないか?
国葬を巡っては、賛成派と反対派が街頭でにらみ合ったでしょう?
双方ともに政治家ではなく、同じ市民です。
答えはその狭間にあるんですよ。(ように僕には見える)
そしてその観点に立てば、自ずと次のルールも見えてきます。
それは多数決の49パーセント側に入ったら自分の意見は通らない、
ということ。
これこそ僕らが採用している50プラス1型民主主義の原則ではないですか?
君主制ではなくてもイヤな意見を押し付けられることはある。
この点では民主主義国家もヘゲモニー国家も大差はありません。
違いは結果ではなく、決定プロセスにしかないのです。
このシビアな現実を直視できず、
49パーセント側が「横暴だ!」と決議をひっくり返し、
自前の正義によって自分たちの意見を押し通した場合、
少数派の意見が全体を制することになってしまう。
すると、あれれ?
少数派が社会のルールとなったら・・・
これじゃ自由と正義という名の絶対君主制じゃん!
こうした皮肉な逆転現象も起きかねない。
もし僕らが今の政治や社会に不満を持つのであれば、
話すべきは議員バッチを付けた人ではなく、
それを付けさせた人々、
すなわち意見を異にする隣人こそが相手なのではないか?
だってほら、どんな強権を振るう政治家も、
選挙に落ちればただの人なのですからね。
えーじ
2022年10月19日
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