2022年10月19日

話すべき相手

先日終わった安倍元首相の国葬。
この件を巡ってはさまざまな議論が起こりましたけど、
なかには前向きなものもあったのではないか?
と僕は考えているのですよ。

それは「話すべき相手」が見えてきたこと。

これまで社会的な問題意識の高い人は、
「政治を変える!」や「自民党を壊す!」
というスローガンを謳うのが常でしたが、
どうやらこれが反対に、
「政治が変わらない」大きな原因なのではないか?
そう気付き始めた人が増えてきたような気がしません?

言い換えれば、
私利私欲で社会を牛耳る悪徳政治家に立ち向かう、
自由と正義の民衆・・・というステレオタイプが、
政治を、いや、社会を変えられない遠因のひとつなのではないか?

そう、ここで抜け落ちているのは、
スーパーヴィランとされる悪徳政治家といえども、
合法的な選挙で選ばれたのだという事実。

さらに日本は代表民主制ですので、
その悪徳政治家は、
数千から数万人の意見を代表する人物でもある。
けして中世からデロリアンでやってきた世襲君主ではない。

ですよね?

なので、「岸田首相、けしからん!」
と国会前でシュプレヒコールをあげても効果は薄い。
なぜなら岸田さんを選挙で当選させた人々が地元で、
「いやいや、文雄君、それでいいんだよ」と言っているのですから。

ここから考えると、話すべき相手は政治家というより、
むしろ同じ市民なのではないか?
国葬を巡っては、賛成派と反対派が街頭でにらみ合ったでしょう?
双方ともに政治家ではなく、同じ市民です。
答えはその狭間にあるんですよ。(ように僕には見える)

そしてその観点に立てば、自ずと次のルールも見えてきます。

それは多数決の49パーセント側に入ったら自分の意見は通らない、
ということ。
これこそ僕らが採用している50プラス1型民主主義の原則ではないですか?
君主制ではなくてもイヤな意見を押し付けられることはある。
この点では民主主義国家もヘゲモニー国家も大差はありません。
違いは結果ではなく、決定プロセスにしかないのです。

このシビアな現実を直視できず、
49パーセント側が「横暴だ!」と決議をひっくり返し、
自前の正義によって自分たちの意見を押し通した場合、
少数派の意見が全体を制することになってしまう。

すると、あれれ?
少数派が社会のルールとなったら・・・
これじゃ自由と正義という名の絶対君主制じゃん!

こうした皮肉な逆転現象も起きかねない。

もし僕らが今の政治や社会に不満を持つのであれば、
話すべきは議員バッチを付けた人ではなく、
それを付けさせた人々、
すなわち意見を異にする隣人こそが相手なのではないか?

だってほら、どんな強権を振るう政治家も、
選挙に落ちればただの人なのですからね。

えーじ
posted by ととら at 09:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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