2019年09月05日

たかが食材、されど食材

八百屋さんでトマトを手に取り、

「ああ、これはアンデス山脈南部の高地で生まれ、
 エルナン・コルテスがメキシコからヨーロッパに持ち帰って、
 世界中に広がったんだなぁ・・・」

なんて思いを馳せる人は殆どいないでしょうが、
ととら亭では料理だけではなく、
素材のひとつである個々の食材もまた取材の対象にしているのですよ。

それというのもこの食材、
あらためて向き合うと想像以上にディープなものでして、
時には遠い昔の話ではなく、
現代の、国際紛争の原因にすらなっていたりします。

その火種と言えば、
僕たち日本人にとってオレンジや牛肉以上にくすぶっているのは、
クジラではないでしょうか?

これ、僕もずいぶん前から気になっていたのですよ。

今年6月末、日本がIWC(国際捕鯨委員会)を脱退したのは、
耳目に新しいところですが、
この件、なにをそんなにもめてるの? 
と今さらながらに調べてみれば、
主食でもない、ひとつの食材(兼素材)から始まった議論が、
もめごとのデパートみたいになっちゃってるじゃないですか。

そこで発端から流れをざっと追ってみますと・・・

クジラの無秩序な捕獲が世界的に問題視されはじめ、
1931年のジュネーブ捕鯨条約、
1937年の国際捕鯨取締協定などが結ばれた後をうけ、
1948年に国際捕鯨委員会が設置されます。
その主たる目的は、
『国際捕鯨取締条約に基づき鯨資源の保存及び捕鯨産業の秩序ある発展を図る』

ふむふむ、それはご尤もな話じゃないですか。

だったのですが、その後は捕獲枠を決める基準が二転三転し、
結局、現時点で科学的に根拠のある基準を策定するのは難しい。
よって、しばらく捕鯨はやめましょう!
という方向に進んじゃった。

くわえて面倒なことに、この議論、計算式上のドライな話ではなく、
1972年にアメリカが国連人間環境会議で
商業捕鯨の10年間一時停止を提案したあたりから、
なんとなく外交カードの臭いがしはじめ、
やがてテーマが『鯨資源の保存及び捕鯨産業の秩序ある発展を図る』から、
『捕鯨をやめるか続けるか』という二元論的議論ならぬ、
論争にシフトしてしまいます。

このころになると舞台に上がる役者も政府・水産関係者だけではなく、
グリーンピースなどの環境NGOや宗教団体まで加わって、
さながらバトルロイヤルの様相を呈して来てしまいました。

僕がこの泥仕合を見ていて溜息をついたのは、
『野蛮』とか『残酷』という、
本来の議論上は関係のない言葉が飛び交いはじめたからです。

そしてその根底で見え隠れしているのが、
『われわれこそが人類のスタンダード!』と信じて疑わない、
オールドファッションな自民族至上主義とあっては、
あんまりお付き合いするのもなんだかなぁ・・・
という気がしていました。

僕は政治家でも文化人類学者でもありませんが、
旅の食堂という仕事で世界をうろついているうちに学んだことがあります。

文化というのは個々の要素で比較こそできても、
その結果は単なる差異であって、
定量化して順位を決められるようなものではない。

つまり文化に『先進』も『野蛮』もない。

これは取り立てて目新しい考え方ではなく、
社会人類学者・民俗学者のクロード・レヴィ・ストロースが、
(僕のアイドルのひとりです)
1962年の著書『野生の思考』の中で文化を構造という言葉で言い換えながら、
上から目線の西洋中心主義をけちょんけちょんにしていました。

そう、個々の人間に、人種に、民族に優劣がないように、
人間の産物である文化にもまた優劣はない。

『残酷』という言葉も、こと相手が人間以外の生物に対して使われると、
僕には場当たり的な人間中心主義の臭いが感じられるのですよ。

だってクジラを殺すのは残酷だけど、
先進国のスーパーマーケットで並んでいる牛、豚、鶏はノープロブレムって、
どんな理屈で正当化できます?
食肉工場の屠殺現場で繰り広げられている光景は、
残酷という表現に値しないのでしょうか?

人間の食とは、基本的に他の生物の命を奪うことによって成り立っており、
その対象は文化によってさまざまです。

たとえば僕の知る限り、日本では犬を食べませんが、
韓国、中国、ベトナム、インドネシアでは食べます。
だからと言って、日本が進歩的な文明国であり、
他の4カ国はかわいい犬を残酷にも食べる野蛮な国だと、
僕は思わない。

そこにあるのは単なる食文化の差異であり、
優劣、善悪、先進と野蛮のような、二元論的対立が入り込む余地はない。

生物資源としてのクジラを論じる時、この文化の本質を離れると、
そこには国家的、または民族的視野狭窄というコワイ落とし穴が待っています。
その意味では、
仮にIWC加盟国による多数決で『民主的』に決めたことであっても、
それが文化優劣論の土台の上にあったのであれば、
その結果も、その決定プロセスを続けることも、
長期的に見て、人類全体の利益にはあまり貢献しないでしょう。

たかが食材、されど食材。

すべての関係国がもう一度おなじテーブルにつき、
外交カードのひとつとしてではなく、
文化の本質を直視した上で継続的資源の使用と保全、
そして配分の議論をすることを、
僕は願ってやみません。

えーじ
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2019年09月02日

僕の労働観 その3

アルバイト、派遣社員、契約社員、正社員。

雇用形態こそ違いますが、どんな働き方をしても、
僕のメンタリティーはいつも同じだったというお話をしました。

では、9年半前からやっている個人事業主はどうかというと・・・

完全に違います。

何がどう違うって、
もう何もかもが根底からしてまったく違う。

まず、労働は誰かのためにするものではなく、
直接的に、自分自身のためにするものとなりました。
もちろんおカネは頂きますけど、
雇用主という特定の人物からではありません。
だから社長や上司という人事権を持つ一握りの人物に、
人生の運命を握られることはない。

この解放感は実に大きい。

そうなると『割り切り』が限りなく減りました。

本意ではなくても、
「お仕事だからね・・・」と自分に言い聞かせて、
別の人格を演じるような必要はもうありません。

だからいま僕は、いわゆる素で仕事をしているのですよ。

たぶん、そのおかげで9年以上、月に400時間前後を働いても、
体は疲れこそすれ、気持ちがバテることがないのかもしれません。
サザエさんだって好き。(見れないけど・・・)

ここで不思議なことが起こりました。

それまでは仕事一色のひとを、
「あれしかやることがなくて可哀想だな」なんて憐れんでいた本人が、
朝から晩どころか定休日にだって働いている。
それでいてなんか楽しい。

そんな自分を見ていてふと思い出したのは、
『労働は人間の本質である』というマルクスの言葉でした。

これ、いろいろな文脈で使われていますけど、
人間の行動が太古の『食』を得る時代から、
現代の『職』を得る時代に変わったとしても、
みんなが寝転がっていたら飢え死にしてしまうという現実がある以上、
『労働は人間と対立しない』というのが僕の素直な解釈なのですよ。
(働かざる者食うべからず、という選民的な意味じゃなくてね)

とはいえ、独立というパンドラの箱を開けて飛び出して来た、
雑務の大群にはほとほと手を焼いています。
お店の営業だけではなく、
経理からトイレ掃除、はてや壊れた機材の修理まで、
なんでもやらなくちゃならない。

やれやれ、労働は人間の本質と言えども、
今度は孔子さまの言う
『過ぎたるは及ばざるがごとし』を絵に描いたような生活になってしまいました。

む〜・・・困ったもんだ。

それでも僕らの場合だって箱の底に残っていたものがあるんですよ。

それは『希望』ではなく、『自由』でしたけどね。

えーじ
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2019年08月29日

僕の労働観 その2

労働とは、
僕の労働力を必要とする人に売ること。

It's just a deal.

若かりし頃からこんな考えが仕事の根底にあったから、
たとえプロパーをやっていても、
健康診断や社員割引などがあると、

いやぁ〜、すみませんね、
こんなことまでやってもらっちゃって。

という気持ちになっていました。
僕の中では給料を頂くことで取引は完了していましたから。

時には給料明細の数字と自分の一カ月分のアウトプットを秤にかけて、

こんなにもらっちゃっていいのかしらん?

と思ったことも。

これが時にあんまり気になったものですから、
人事部長と面談した時に、

「僕は自分なりにベストを尽くしているつもりですが、
 ちゃんと皆さんの役に立っていますでしょうか?」

とマジで訊いたこともありました。

いや、これは『謙虚さ』を湾曲的に誇張しているのではなく、
僕の労働観に照らすと、
この問題は進退判断にも繋がり兼ねないものだったからなのですよ。

僕には僕の売り物があり、会社はそれを買っている。
しかし百貨店ではないので、
何でも揃っているというわけではありません。

そこでニーズと売り物の間にギャップが生じたらどうするのか?

単純に取引終了です。

僕は自分を押し売りするつもりはありませんでした。
また自分の持っていない売りもの、
たとえば経理や人事の仕事を『仕入れる』気もなかった。

それじゃまるで派遣社員と同じじゃないか?

と言われるかもしれませんが、僕もそうだと思います。
雇用契約の形がどうあれ、
与えられた条件下で、自分の納得した範囲の仕事を精一杯やる。
勤続年数はただ結果の数字でしかない。
このスタンスは派遣でもプロパーでも変わりませんでしたから。

こうした立場の目線で職場を見ていると、
外国を旅している時と同じような感覚になったことを覚えています。

なぜこの人は20時になって、
1週間後にやる会議の資料を作っているんだろう?

とか、

なぜこの人は自分のアイデンティティでもあるかのように、
異動を恐れて今の仕事を守ろうとしているんだろう?

という光景が、心理的にとても離れて見えたのです。

たぶん、それはこの国で最も支持されている労働観に、
スタートの時点から入らなかったせいじゃないかな?

そうした意味で、
現在、勤続年数最長記録更新中の『旅の食堂ととら亭』は、
僕にとって必然的な結果だったのかもしれません。

えーじ
posted by ととら at 23:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2019年08月26日

他人の空似

僕はどういうわけか、ハイティーンの頃から、

「XXXXXに似てるね」

と言われることがよくあります。

いや、別に意識していたわけではないのですけど、
周りが勝手にそういうのですよ。

それを年代順に思い出すと・・・

20歳代 近藤真彦さん

30歳代 時任三郎さん

40歳代 糸井重里さん

とまぁ、ここまでは良かったのですが・・・

50歳代 食い倒れ太郎さん

・・・・・・・・・・・・

なぜだ?

えーじ

P.S.
ともこはよく、

「寺島しのぶに似てますね」

と言われます。

そうかな?
posted by ととら at 16:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2019年08月23日

僕の労働観 その1

ととら亭を始めて間もなく9年半が経とうとしています。

勤続25年以上が当然の人生を送っている、
同世代の方には想像し難いことかと思いますが、
この年月は僕にとって同じ仕事を続けているという意味で、
生涯最長記録更新中なのですよ。

更に付け加えると、これはワイフのともこにも当てはまり、
この事実だけでも僕ら夫婦のハチャメチャぶりが、
お分かりいただけるのではないかと思います。

振り返ればアルバイトも含めると、
これまで実にさまざまな仕事をやってきました。

その雇用形態も同様で、
アルバイト、派遣社員、契約社員、正社員。
いろいろな立場で働いてきたものです。

しかし一貫して共通していることもありました。

それは僕の労働観。

いきなりゴーマンかまして恐縮ですが、
僕はおカネをくれる相手を尊敬したことは一度もありませんでした。
ハイティーンの若造がそうだったというとちょっと滑稽ですけど、
常に相手と対等の立場に立っていたつもりだったのですよ。

しかしこれは相手をおちょくっていたという意味ではありません。
対等ということは、
自分に対して求める敬意と同じことを相手にもはらうのがルールです。

ですから僕の中で『働く』ということは、
『取引する』と同じことでした。
すなわち僕は労働力を売り、相手はそれを買う。
それ以上でも以下でもない。

こうしたドライな考え方をしていると、
労働を神聖視し、時には労働者の人格や人権と一体化させる潮流からは、
ほぼ完全に外れてしまいます。

だからプロパーをやっていても、
会社という組織への忠誠心が欠けていたのかもしれませんね。
運命共同体と思ったことはない。
出世も停年退職も頭にない。

給料の範囲で働く。
こりゃ割に合わないな、と思ったら手を出さない。
しかし時にはおカネ以上の意味を見出して、
その合計値に見合った労働をしたこともありましたけどね。

こうした考え方をするようになったのは、
ハイティーンの頃のバイトの経験が、
きっかけになっているような気がしています。

あの時代、まだ景気はよく、
プロパーの間では終身雇用があたり前でしたけど、
それは社会全体に当てはまることではなかったのですよ。
未来を予見するかのように、一部では体よく使われ、
用済みになれば手のひらを返すように、
解雇された人たちの姿をすでに見ることができました。

雇用条件もムチャクチャでしたね。
たとえばバイトやパートの時給は、
30分刻みで計算されているところが少なくなかったのですよ。
これ、かりに15時から20時までシフトに入っていたとすると、
タイムカードの打刻時間が15時1分と19時59分だった場合、
賃金対象になるのは4時間58分ではなく、
4時間に丸められてしまうのです。
計算上は15時30分から19時30分までしか働いたことにならないのですから。

これは僕のポリシー上、受け入れがたい。
1分ぶんの労働力を売ったのだから、1分ぶんのおカネをもらうのが当然。

そこで、とある仕事でマネージャーをやっていた時、
社長に計算方法の是正を申し入れると、その回答は、

「そんなことしたら計算が面倒くさくなるでしょ?」

まぁ、さすがに最近は労基局の目も光っているので、
こうした数字に残る横暴はなくなってきたと思いますが、
フェアトレードになったのかというと・・・

どうなんでしょうね?

みなさんの職場の労働と対価のバランスは適正ですか?

もっというと、
みなさんが属する組織は、富の分配が適正に行われていますか?

え? ととら亭はどうなんだ?

ここには従業員はいませんけど、
僕らをそれになぞらえれば・・・

ブラックです。

えーじ
posted by ととら at 13:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2019年08月21日

理解されざるセンス

先日のジョギングシューズに続き、
今回はメガネを新調しました。(これも11年振り!)

選んだフレームは、今の僕にふさわしく、
戦前の文豪をイメージした、ちょっとクラシカルなもの。

メガネ屋さんを出る時、担当してくれた店員さんは、

「お客さま、たいへんお似合いでございます」

ふ、だろうね。
僕もそう思うよ。

そして意気揚々とお店に帰り、

「ただいま」
「あ、おかえり〜、メガネどんなの作ったの?」

僕はちょっと構えて表情を作り、

「どうだい?」

「ぷっ! カワイイ!
 なんか、食い倒れ太郎みたい!」

・・・・・・・・
・・・・・・・・

なぜだ?

えーじ
posted by ととら at 14:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2019年08月18日

夏という旅 その3 最終回

女の子にモテたい!

ただそれだけの、純粋に不純な動機で始めた部活とバンド、
そしてオートバイ。

心の夏を構成するこの3つの要素が、いつしか手段から目的に変わり、
やがて僕という存在の一部になるとは、当時思いもしませんでした。

とりわけ今の仕事の原点にも繋がるオートバイは、
他の二つ以上に大きな意味を持っていたのかもしれません。
それゆえライダーになるためとあらば、
どんな障壁も苦にならなかったのでしょう。
たとえば・・・

『免許を取らせない』『買わせない』『運転させない』

僕のハイティーン時代は、高校生がオートバイを乗れないようにするため、
いわゆる『三ない運動』が熾烈を極めていた時代。
(バイクに乗っているだけで『不良』と呼んでもらえたのだよ)
しかし僕のようなナチュラルボーンアウトサイダーに、
そんな制度は『火に油』以外のなにものでもありませんでした。

禁止されているということは、ライダーが少ないということさ。
それこそ女の子の注意をひく絶好のチャンスじゃないか?

こうして16歳になるなりこっそり原付免許を取り、
友だちから中古の原付バイクを購入。
あ、スクーターじゃありませんよ。
キックペダルでエンジンをかけるギア車です。

それで公道デビューを果たした後は、
これまた友だちから悪名きヤマハのRZ350(※)を借り、
夜の本牧ふ頭で中型免許を取るための練習に励む日々。
(公道ではなかったので無免許でも乗れたのです)

まもなく手に入れた自分の中型バイクは、
ホンダのホーク2(中古で10万円)でした。

仲介してくれた友人が、
これに乗って家まで来てくれた時のことを、
今でも鮮明に覚えています。
そして早速、この鉄の馬に跨り、
エンジンをスタートさせた時に感じた排気音とバイブレーションも。

これまた言葉で表すのは難しいのですが、
空こそ飛べなくても、この鉄の機械は僕にとって、
何処へでも望んだところに行ける自由の翼に他ならなかったのです。

それからというもの、部活とバイトとバンドの練習が重なろうとも、
気力と体力の続く限り、夜のロードに繰り出す日々。
(勉強はどうしたんだ?)

あ、暴走族に入ったんじゃありませんよ。
僕はあの頃から単独行動型でして。
それから峠を攻めていた走り屋でもありません。

ひとりでよく走ったのは、横浜本牧の実家を出て国道16号線を南下し、
三浦半島を回り込んで葉山、稲村ケ崎と走り、
江の島を過ぎたあたりから国道1号線に入って戻る周回コース。
片岡義男氏の小説をバイブルにしていた若かりし僕にとって、
湘南は一種の聖地でもありましたからね。

ここからバイク遍歴は、
ホンダCBX400F、ヤマハSRX400と続き、
最後はBMWR100GSというビッグオフローダーに落ち着くのですが、
車種の変化はそのまま僕の旅を表してもいました。

湘南の散歩から、箱根、伊豆へと距離を伸ばし、
それがキャンプや登山を交えて信州、東北、北海道、九州、
はてや離島も含めた全都道府県をさまようことになったのです。

こうなるともう、
動機は完全に女の子から好奇心に入れ替わっていましたね。

なかでも当時購読していた
『アウトライダー(ミリオン出版)』というツーリング雑誌は、
掲載されていた写真が美しく、
「どうだい? 日本にはこんな場所があるんだぜ」とばかりに、
僕を挑発してやまなかったものです。

閑話休題。

『夏は単なる季節ではない。それは心の状態だ』

僕がこの言葉を補足するとすれば、こうなるかな?

夏とは、
心がバックボーンを作る季節なのだ・・・と。

えーじ

※ ヤマハRZ350
水冷2サイクル2気筒のエンジンを持つ750キラー。
フロントタイヤが浮く恐るべきトルクと、
ターボチャージャー並みの過激なパワーバンドがあり、
乗りこなすのが極めて困難だったじゃじゃ馬。
RZ250、RZ50も含めてとにかく事故が多かったです。
posted by ととら at 16:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2019年08月15日

今日、ギョーザを食べながら

6月の取材旅行で訪れた場所のひとつは、
ハルビンをはじめとする中国の東北部でした。

目的は言わずもがな、
日本ギョーザのルーツ探し。

取材の結果は、
このブログの『第18回取材旅行』シリーズでお話したとおりですが、
取材中、いや、出発前から、
実はあることが、ずっと頭に引っかかっていたのですよ。

それは、旧満州国から餃子を伝えたとされる、
関東軍や満州開拓団の引揚者というのは、
どんな人たちで、何を目的に、現地で何をしていたのか?

もちろん、この近代史におけるひとつのシーンは、
文科省お墨付きの教科書で、
義務教育を受けた人なら知ってのとおりでしょう。

しかし、「ああ、そうだったっけ?」
と思い出すだけでは消えない不安が僕の中にはありました。
そしてこの心許ない気持ちは、
オートバイでひとり日本を旅していた、
20歳代の頃の自分にも繋がっていたのです。

78年前。
帝国主義者の東条英機を首魁とする軍部は、
無垢な僕たち国民のみならず平和主義者の天皇裕仁をも欺き、
結果的に日本は太平洋戦争へと突入した。

そう、
悪いのは軍。
天皇陛下は国民を愛するいいひと。
僕たちはみんな騙された被害者。

方や視点を広げると、
日本は領土的野心に燃えて隣国を侵略し。
アメリカをはじめとする連合国がその行く手を阻むことで、
アジアは平和を取り戻した。

そう、
悪いのは大日本帝国。
アメリカをはじめとする連合国は正義の味方。
中国、韓国をはじめとする被占領国は可哀想な被害者。

この分かり易い勧善懲悪的歴史解釈は、
青年だった僕のなかで、いつも居心地の悪い違和感と共にありました。

ホントにそうなのかしらん?

そして日本をさまよう旅で訪れた広島、長崎、鹿児島、沖縄。
各地の資料館を訪ね、市井の声が記録された私家版の資料を読み、
時には体験者の話を聞くうちに、
僕の中で形作られて来た解釈は、学校で教えられたものとも、
いわゆる識者が著述したものとも、だいぶ違ったものになりました。

いや、僕は自分の調べた結果が正しく、
他が間違っていると言いたいのではありません。

僕が理解したのは、僕だけに有効な答えであって、
たぶん、これを読んでいるあなたの役には立たないでしょう。

でも、ひとつだけシェアできることがあります。

もし、ある過去が自分にとって大切だと思うなら、
その意味を自分で調べ、自分で考えてみることです。

そう、僕たちが自分の頭で考えることをやめ、
従順なひな鳥として、
愚かな指導者に白紙委任状を渡すようになれば、
1941年12月8日は過去ではなく、
再び、僕たちの未来になってしまうかもしれません。

日本ギョーザは、
とても、とても小さな声で、
僕たちに何かを語りかけている。

僕にはそう思えてならないのですよ。

えーじ
posted by ととら at 15:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2019年08月13日

夏という旅 その2

ガールフレンドをゲットするための、
十分条件である部活が終わった18時過ぎ、
ボロボロに疲れた僕は、重い体を引きずりながら家路を急いで・・・

いませんでした。

確かに急いではいたのですが、
行き先は自宅ではありません。
もちろん塾でもない。

僕が週に3、4回通っていたのは・・・

野毛の焼き鳥屋です。

え? 学生服着たまま飲みに行ってたのか?

違いますよ。
さすがにそこまでムチャクチャな時代ではありませんでした。

目的はバイトです。

なぜか?

前回お話しましたように『勤勉』なリビドーボーイの僕は、
モテるための十分条件である部活、バンド、
オートバイの3つをすべて満たしていたナイスガイ。
しかしながら、バンドをやるには元手が必要だったのです。

そこで学校にバレないよう、
(もちろん禁止されていましたから)
ちょっと離れた街で、時給のいいバイトをやっていたのです。

はじめて買ったのは、モーリス製のフォークギター。
ケース代込みで25,000円でした。
このくらいなら、当時でも1カ月間がんばって働けば、
僕にもどうにかなったものです。

ところが吉田拓郎やかぐや姫のコピーばかりやっていたのでは、
モテ効果もイマイチ芳しくない。

なぜだ?

そうか、音が小さいからかもしれない。
この程度じゃ、いかに練習しても、
教室でやるパーティ程度でしか自分をアピールできないじゃないか。

時は折しもニューミュージック全盛期。
こじんまりした4畳半フォークソングから、
オフコースやゴダイゴ、ツイストなど、
エレキギターをフューチャーしたバンドが注目され始めていました。

そうか、これで行こう!

そこで組んだのが、
2ギター、キーボード、ドラム、ベースの5ピースバンド。
(僕はリードギター&ボーカル担当)
この編成は当時主流になっていましたけど、
珍しかったのは、
僕を含めた3人が交代でリードボーカルを取り、
コーラスだけできるメンバーもいたので、
4声コーラスが可能だったことです。

おまけにキーボーディストがハイトーンボーカルでしたから、
ライブセットは演奏難易度の高いオフコースやチューリップ半分、
あとはオリジナルで構成していました。

このバンド、はっきり言って、
楽器の演奏レベルは大したことありませんでしたけど、
コーラスワークは他のバンドの追随を許さず、
ア・カペラを多用したアレンジが受けて、
けっこう集客力があったのですよ。
(つまりモテた、というわけでございます(当人比))

先にお話した焼き鳥屋でのバイト代は、
このバンドをやるための、練習スタジオ代や、
プロの音になるべく近づけようと努力するための、
機材購入費に消えていました。

そんな僕らの夏と言えば、秋の文化祭やライブに向けた特訓の季節。
当時、横浜の桜木町駅から本町通りにかかる橋を渡った左側に、
ヤマハのホールとスタジオを併設した施設があり、
練習、ライブともによくここでお世話になっていました。

練習はたいてい18時くらいからが多かったですね。
そうすると桜木町駅からスタジオまで行く道は、
関内にある県庁や企業から駅に向けて帰宅する人たちでいっぱい。

スーツを着てビジネスバッグを下げた、
大勢の大人たちの流れをかき分けるように、
髪を伸ばして楽器を背負った僕たちは歩いて行きました。

ああ、僕はこの先も、
こんな人生を送って行くのかもしれないな。

あれから38年が経ち、僕の仕事は音楽ではなく、
背負っているのも楽器がバックパックに変わりましたが、
若かりし頃の、あの予感は、あながちハズれていなかった。

Eaglesを聴きながら、ある夏の日の午後に、
僕はそんなことを思い出していたのです。

えーじ

P.S.
ととら亭のウェブサイトに、
ソロで多重録音していた頃の作品を、こそっとアップしておきました。

いつかまた、楽器を手にする夏の日のために。
posted by ととら at 14:25| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2019年08月10日

夏という旅 その1

『夏は単なる季節ではない。それは心の状態だ』

これは1977年に角川書店から出版された片岡義男氏の小説、
『彼のオートバイ彼女の島』のハードカバー版表紙で使われた言葉。

実はこれ、氏が創作したものではなく、
カリフォルニアで上映されていた、
サーフィン映画のナレーションから引用したものだそうな。

ま、その出自はともあれ、この言葉、
書店で本を手に取ったハイティーンの頃の僕には、
中身の物語以上に心に残るものとなりました。

そう、僕にとっての夏もまた、
まさしく単なる季節のひとつではなかったからです。

うまく説明するのは難しいのですが、
強いてたとえるなら、
夏とは、青くさい葛藤であり、初めての経験と向き合った驚きであり、
力まかせの恋であり、いわゆる青春そのものでありました。

その渦中で常に僕の頭の中心にあったのは、

受験勉強・・・

ではなく、ガールフレンドです。
(この若かりし頃の選択は間違っていなかったと、
50歳を超えてなお確信しております)

幸いにして時代はそうしたリビドーボーイズに味方し、
部活か、バンドか、オートバイに乗るか、
このうちどれかひとつでもやれば、
ほぼ確実に彼女をゲットできたものです。
(勤勉な僕は3つすべてやったので獲得率100パーセントでした)

実にシンプルな、いい時代だったのですよ。

しかし、これだけ的を絞っても、
人生、想定外のことは起こるものです。

これが一番モテそうだな?

というだけのピュアな動機で入部したバスケットボール部は、
映画『フルメタルジャケット(※)』のリー・アーメイ扮する鬼教官が、
マザー・テレサかと思えるようなマッドコーチの君臨する世界。

現代の規範では考えられないでしょうが、
1年生はほぼ毎週のようにパンチ&キックを見舞われ、
2年生でそれが月数回程度に減り、
3年生になってようやく3カ月に1回くらいで許される、
そんなアタタなところでありました。

まぁ、暑かろうが寒かろうが、
朝から晩まで走らされること馬の如し・・・

お蔭さまでこの歳になっても、
酷暑の中で走って平気な体にはなりましたが。

そのあと入ったのはラグビー部。
動機は同じく、
当時、週刊少年マガジンで連載されていた、
小林まこと氏作『1・2の三四郎』でラグビーが取り上げられ、
(その前に中村雅俊氏主演のテレビドラマ『われら青春!』もありました)
にわかに女の子の間でも注目を浴びつつあったからです。

ところが、ここでも人生の想定外が若き僕を待っていました。

このスポーツ、テレビや漫画のイメージと異なり、
暑い、汚い、むさくるしいの3拍子揃った、
とてもではありませんが、
夏にやるべき運動ではなかったのです。

さて、バスケットボールで培った足の速さとステップのキレを買われ、
バックスの華、ウイングとしてデビューしたところまでは良かったのですが、
ほどなく練習のキツさからフォワードメンバーが次々と辞め、
いま以上にひょろひょろ体形だった僕が、
ロックやエイトなどのバックローのみならず、
フロントローのプロップやフッカー(ありえん!)までやらされる破目に・・・

ここで僕は人生で初めて『気絶』という経験を味わいました。

対校試合中、加速した敵バックスを正面タックルで仕留めたのですが、
コンタクト時に頭を強打し、気が付けば相手ともどもグラウンドで大の字に・・・
ま、あれは痛みを感じる間もなく意識が飛んでしまうので、
意外と気持ちのいいものでしたけど、
自分がどこで何をしているのか思い出すのに、
しばし時間がかかりました。

100パーセント純粋に、不純な動機ではじめたスポーツではありましたが、
振り返ってみると、本来の目的であった、
ガールフレンド以上の意味があったような気がしています。

陽炎が揺れる焼けついたグラウンド、
「マイボー! マイボー!」「出せっ!」
飛び交うチームメイトの声、
青空に高く上がる楕円球・・・

今はひとりで走っていますけど、
時おり、はるかな道の向こうで、
ラグジャーを着たあの悪ガキどもが手を振っているような気がします。

「えーじ! おせ〜ぞっ!」

ちっ、うるせぇな!
いま追いつくよ!

夏とは、おじさんになった僕にとっても、
こうした特別な季節のままなのかもしれません。

えーじ

※ フルメタルジャケット
1987年に上映されたスタンリー・キューブリック監督のベトナム戦争映画。
全体が海兵隊訓練所とベトナムでの2部に構成されており、
海兵隊訓練キャンプにおける過酷な訓練で登場するのがリー・アーメイ扮するハートマン軍曹。
posted by ととら at 10:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記