2024年11月28日

第24回取材旅行 その42

Dober dan! (ドーベルダン! (こんにちは!))

ドブロブニク、スプリトに続き、
僕らはクロアチアへ3度目の入国となりました。
滞在しているのは首都のザグレブ。
先日までいたスロベニアのリュブリャナからは、
国際バスで2時間ほどの距離です。
両国はEUに加盟し、シェンゲン協定圏内なのでイミグレはなし。
国境には高速道路のトールゲートに似たチェックポイントがありましたが、
バスは徐行しただけでスルー。

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過去の遺物化した国境のゲート(クロアチア側)

到着時刻がちょうど昼どきだったので、
ホテルにチェックインしてすぐに取材開始。
ここで直面したのが料理の量の問題です。
ヨーロッパを巡る旅では常について回る悩みなのですが、
それでもクロアチアは群を抜いていました。
のっけからこれですよ。

pasticada_hr.jpg
Pašticada パシュティツァーダ
プラムなどのドライフルーツを入れたビーフシチュー
ダメ押しの別盛ニョッキ付き!

duck_hr.jpg
スタッフお勧めのフライドダック
カトラリーの大きさで量がお分かりいただけるかと・・・
しかもたっぷりパスタ付き!

いや、欲張ったわけではありません。
ただメインを2品オーダーしただけ。
しかし、その一品が、ととら亭の量と比較するなら、
2倍を超えているじゃないですか!
ということは、ほぼメイン5品と同じ量に・・・
どおりでウェブのレビューに目を通してみたら、
イギリスやフランスなど白人のお客さんからも、
「量がハンパじゃない!」と書き込まれていたわけです。

その日は肉物で昼からお腹パンパンにしてしまったので、
やむなくディナーの取材は中止に。
そしてリベンジを仕掛けた翌日のディナーでは、

cobanac_hr.jpg
Slavonski čobanac スラボンスキー・チョバナッツ
スラヴォニア地方のいろいろな肉を入れた羊飼いスープ

一般的に、スープと言えば「軽い食事」をイメージするでしょ?
ところが、クロアチアでそんな甘い話は通用しません。
ご覧のとおり、大鍋で運ばれてきた「一人前」をシェアしたら、
ひとり2杯分に! つまりここの1人前は日本の4人前!
(お肉がゴロゴロ入っているし!)
取材がときにフードファイト化するのも、
おわかり頂けるのではないかと思います。
ほんと、仕事としての取材は年齢を別にしても楽ではないのですよ。
(これ以外にもう一品トライしましたので・・・)

さて、明日は再び移動です。
目指すはセルビアのベオグラード。
ここでちょっと思い出して頂きたいのが、「その38」でお話した、
「敵の友は敵」の問題です。
僕らは先立ってコソボに入国していますが、
セルビアは未だにコソボを国家承認していないのですよ。
つまり、彼らにとってコソボ政府は反対勢力。
その逆賊のルールに則って「入国」した僕らはある意味、
「敵の加担者」と見なされる可能性があるのです。

こうした問題はこれまでも、
コーカサスを巡ったときのアゼルバイジャン、アルメニア間、
キューバを訪れたときのアメリカとの関係など、
世界的には珍しいことではなく、
イスラエルの入国スタンプがあると、
サウジアラビアやイランで入国拒否に遭う話も、
旅人の間では随分まえからよく知られていました。

2017年にマケドニア(当時)からセルビアに入国したときは、
「お〜、日本人か、珍しいな!」と、まぁ友好的なムードでしたが、
あのときはコソボのスタンプがありませんでしたからね。
今度はいったいどうなることやら。
(目立つところにババンと押されているからなぁ・・・)

アルメニアでは出国時にアゼルバイジャンのビザに気付かれ、
それまでフレンドリーだったインスペクターが、
イヤぁ〜なムードになったのを思い出します。
僕はどちらにも悪感情を持っていないのですけどね。

それでは明日の今ごろ、無事ベオグラードに着いていることを祈りつつ、
筆(?)を置きたいと思います。

to be continued...

えーじ

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最初のクロアチア入国地、ドブロブニクで
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2024年11月23日

第24回取材旅行 その41

Dober dan! (ドーベルダン! (こんにちは!))

サンマリノをローカルバスで出発し、
ボローニャ、ベネツィアと取材しつつ、
昨日の昼過ぎに、僕らはこの旅25番目の渡航国、
スロベニアの首都リュブリャナに到着しました。

ryublyanastation_si.jpg
リュブリャナ駅前のバスターミナルで

え? 首都はブラチスラバだろう?
いやいや、それはスロバキア!
ここはユーゴスラビアを構成していた、
バルカン半島の北端に位置するスロベニアです。

標高は手持ちの高度計で300メートル。
昨夜は気温がみるみる下がって摂氏1度。
おまけにディナーに出かけるころには霙が降りはじめ、
一夜明ければ薄っすら雪化粧をしておりました。
こりゃ、サラエボよりも寒いですね。

snowfallin_si.jpg

面積は四国とほぼ同じの20273平方キロメートル。
人口は東京都民の約1/6にあたる約210万人。
ユーゴスラビア紛争の過程から生まれた国のひとつですが、
ボスニア・ヘルツェゴヴィナやクロアチア、
コソボと違ってさらっと独立しています。

また、西部の国境がイタリアに接しており、
(僕らもベネツィアから長距離バスで入りました。
所要時間は4時間弱)
西側諸国と地政学的にも近かったことから、
戦後の経済的復興がとても早かったようです。
今では平均的な個人所得もギリシャすら抜いて地域ナンバー1。
EU、NATOの加盟国であり、シェンゲン領域内。
通貨はユーロです。

oldcity_si.jpg
リュブリャナ旧市街の中心

そのせいか、あまりバルカンの国という印象を受けませんね。
どちらかというと、より西側に近いというか。
これはソビエト連邦を構成していたバルト3国でも記憶にありますが、
社会主義臭さが街からも人からもほとんど感じられないのですよ。
もともと民主主義と資本主義をやっていたかのような・・・

たぶん、オスマン帝国に占領されなかったことも、
大きく影響しているような気がします。
街にモスクが見当たりませんし、中東系の人の姿にしても、
ボスニア・ヘルツェゴヴィナや北マケドニアに比べてずっと少ない。

また、宗教の面でも、
教会の建築様式と十字架の形を見ればわかるように、
国民の約6割を占めるクリスチャンは、
正教系ではなくカトリック。
これはバルカン半島の中でも珍しい。

これらの違いはとうぜん料理にも現れていて、
ギョーザの一種と考えられるジルクロフィを見ると、
ボスニア・ヘルツェゴヴィナのクレペのような、
トルコのマントゥ系ではなく、
形や中身、食べ方の点でイタリアのラビオリにずっと近い。

zilcrofi01_si.jpg
ジルクロフィ žlikrofi
スロベニアのポテトを包んだ小型ギョーザ
ソースは別として、ギョーザ本体の大きさ、形、中身は、
発祥地イドリアの原産地呼称制度で守られており、
そのお約束を守ると、イドリア風(Idrijski žlikrofi)となります

zilcrofi02_si.jpg
これはそのバリエーション
ポルチーニ茸の入ったクリームソース和え

この仕事を長らくやって気付いたことがあります。
料理というのは、一種の歴史的な痕跡なのですよ。
素材や形、調理法、味付けから食べ方まで、
すべからく過去の影響が反映されていると言っていい。
とりわけギョーザのように、
広い範囲で確認できる示準料理を比較すると、
なるほどねぇ・・・と頷けることがよくあります。

言い換えれば、歴史とは文化のコンテクストであり、
料理はその上で解釈されて形となり、日常の食卓にあがる。
僕らの旅は、いわばそれを逆行しながら追いかけているわけで、
自ずと現地で入り込むのも、
オリジナリティを売り物にする高級レストランではなく、
市井のローカル食堂になるわけですね。

スロベニアでは他にもユニークな料理が幾つかありました。
皆さんとシェアできる日がとても楽しみです。

to be continued...

えーじ
posted by ととら at 06:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年11月19日

第24回取材旅行 その40

Buon giorno! (ボンジョルノ!(こんにちは!))

3度目の正直は本当でした。
因縁のアドリア海を夜行フェリーで渡り、
僕らは今、24番目の渡航国、サンマリノに滞在しています。

え? 前回イタリア半島に行くと言っていただろう?
そのとおりです。
サラエボを早朝のバスで発ち、
国境を越えて昼過ぎにクロアチアのスプリトへ。
そこから夜行フェリーでイタリアのアンコーナに向かったのです。

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クロアチアのスプリト港

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アドリア海を渡り、霧に包まれた早朝のアンコーナ港へ

そこから、これまた因縁のトレニタリアに乗り、
着いたのはリミリという街。

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そしてバスで揺られること約1時間。
僕らはアンドラ、ルクセンブルグ、リヒテンシュタイン、モナコに次ぐ、
世界で5番目の小国、サンマリノに到着したのでありました。

と、言っても「・・・?」ですよね?
僕らも来るまではそうでしたから。
そこで、どんなところかをかいつまんで説明しますと、
まず、バスの車窓越しに、こうして現れてきます。

sanmarinolongshot_sm.jpg

なんか荘厳なムードがありません?
先に訪れた4か国はモナコを除くと山間の谷間に位置していますが、
サンマリノはその逆、標高650メートルの峻険な岩山の上にあるのです。
その面積はおおむね世田谷区くらい。
人口は日本で最も県民数が少ない鳥取県の1/15にも満たない33,881人。

しかしその歴史は古く、1631年まで遡り、
さらに波乱万丈の近代史において、
一度も交戦したことがないという、超レアな独立国。

それにしても、こうした小国を訪れると、
「国とは何か?」という疑問を抱かずにはいられません。
たとえばサンマリノは、
シェンゲン協定はおろかEUにすら加盟していないのですよ。
にもかかわらず、通貨はユーロが使われていたりして。

また、空港がないため、イタリアから陸路で入るしかありません。
ビザを発給していないので入国審査もなし。
だから路線バスでするっと入れてしまう。
(そういえばバチカンもこうでしたねぇ・・・)
素人目には国境がどこかは分からず、唯一の目印がこれ。

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横断歩道が白と水色に塗られていますが、
これはサンマリノの国旗の色を表現しているそうな。

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文化的にはほぼイタリアと同じで、言語もイタリア語が使われています。
となれば、料理も当然イタリアンですが、
なかにはこんな素朴な一品も。

piadina_sm.jpg
Piadina ピアディーナ

元来イタリア北部ロマーニャ地方の発祥といわれる、
小麦粉で作ったトルティージャ風の生地に、
ハムやチーズなど、好みの具を挟んだ料理。
しかし、古(いにしえ)のファーストフードなとと侮るなかれ、
僕らは生ハムとモッツレラチーズ、そしてルッコラという、
黄金トリオで食べましたが、
これがまた同じ具材を使ったピッツァやカルツォーネと、
似て異なる絶品ではないですか!

また、お供にドラフトワインを頼めば、
注がれてきたのは微発泡のフリッツァンテ!
ヴィーニョヴェルデやチャコリファンにはたまらんサプライズです。

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レストランの窓から見下ろせば

この景色を見ながら味わうこの料理とワイン。
もうこれだけで「来て良かった!」な幸せを味わいました。

で、締めたら不十分ですな。
先の小国では見られない絶景が、軽い散歩で楽しめます。
食後はぜひ、世界遺産にも登録されている歴史地区へ。

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山頂にそびえる第1の塔から見た旧市街

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第2の塔から見た第1の塔
高所恐怖症の方には勧められません

そして運が良ければ、こんな夕焼けも

sunset_sm.jpg

サンマリノが、小さくても、これほど美しい国とは知りませんでした。
もし機会があれば、日帰りではなく、
ぜひ一泊してみてください。
イタリア半島の旅の忘れられないハイライトになると思います。

to be continued...

えーじ
posted by ととら at 08:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年11月17日

第24回取材旅行 その39

突然ですが、白状しますと、
僕らがやっているような旅は・・・

疲れます。

と、申しますのも、日々これ初めての経験ばかり。
バスから降りて一歩あるき出せば、人も知らず、街も知らずでしょう?
道路の渡り方ですら、考えこんでしまうことも珍しくありません。
そんな中で、まず現地通貨を「安全に」調達し、
次の街(国)へ移動するバスや鉄道の確認を始めるわけですから。
なにをかいわんや。

ticketcounter_ba.jpg
サラエボのバスターミナル内

一般的な例にたとえるなら、
入社や入学の当日を思い浮かべていただければ、
当たらずとも遠からずでしょうか。
初めての通勤(通学)から勝手のわからない仕事(授業)と人間関係、
食事をするにも、どこでどうしたらいいものやら。
帰宅するころには心身ともにくたくただったはずです。

で、それが100日以上も続くと、どうなるか?

いきなり壊れます。

一昨日の僕がまさしくその状態で、
前回のブログをアップし、さぁ寝よう!と爆睡モードへ。
ところが朝まだ暗いうちに・・・

ん? ・・・んん? 何だ?
もう・・・眠いんだから、放っておいてちょうだい。
ん? 痛てて・・・ 何だこりゃ?

と僕を起こしたその正体は、突然の腹痛でした。
仕方なく眠い目をこすってトイレに駆け込めば、ひどい下痢。
その後は2時間ほどトイレで仮眠をとる破目となりまして。
翌日は夜まで沈没しておりました。

さすがに還暦過ぎてバックパッカーをやっていると、
いろいろガタがくるものです。
上半身の筋力もトレーニング不足でヘロヘロですし。
残すところあと23日間か。
気を引き締め直して、無事に帰国しなければ。

といいつつ一抹の寂しさも感じています。
この長い旅も終わってしまうんだなぁ・・・
というより、日々これ出会いと別れという意味で。

毎日、いや毎時、「いい人だな」「素敵な店だな」「美しい風景だな」
と思いつつ、同時に「もう会えない」「これが最後だ」とわかってる。
この100日あまりの僕らの旅は、その連続でした。

旅人というのは影のような存在でして、
その場に現れても、何の痕跡も残さず消えて行くのがその定め。

ここサラエボも、
たった4日間ながら実に多くの出会いと別れがありました。
「本当は君の名前を聞きたかったんだよ」と思ったことも、
1度や2度ではありません。
そしてそれは人間に限らず、なぜか僕によくなつく野良犬たちもまた然り。

これは飼い犬のケースでしたが、
フランスのバイヨンヌでお世話になった宿に、
ジョゼットというラブリーなワンちゃんがおりまして。
やたらと僕になついていたのですが、オーナーさんとのふとした会話で、
「2日後にはアンドラに向かいます」と言った途端に見せた寂し気な表情は、
人間の言葉を理解しているとしか思えないものでした。
そしてそれがたとえ犬のものであっても、
そんな目で見られると、ぐっときてしまうものです。
(ごめんよ、ジョゼット)

長年、旅人をやっていて別れには慣れているつもりですが、
誰かを残してその場を去るときは、
今でも言葉にならない気持ちになることがあります。
ときにはそれが街であることもあり、
これが最後なんだ、と思うと、やっぱり・・・ねぇ。

ありがとう、サラエボ。
君のことは忘れないよ。

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穏やかな初冬のサラエボの街

明日の朝、6時のバスで僕らはクロアチアのスプリトに向かいます。
そしてそこから夜行フェリーで再びイタリア半島へ。

Hello and Good bye.

僕らの旅は続いて行きます。

to be continued...

えーじ

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posted by ととら at 02:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年11月15日

第24回取材旅行 その38

Zdravo! (ズドゥラヴォ(こんにちは!))

日本を旅立って102日。僕らは23番目の渡航国、
ボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボに滞在しています。

busterminal_ba.jpg
サラエボのバスターミナルで

昨夜の最低気温は0度。
夕食に出るときは、さながらスキー場に来たかのような寒さでした。
(そういえば、ここは1984年の冬季オリンピック開催地でしたね)

モンテネグロのコトルではともこが沈没してしまいましたが、
その後はすっかり回復し、クロアチアのドブロブニク、
ボスニア・ヘルツェゴビナのモスタルと移動しつつ、
順調に取材を続けています。

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コトルの要塞から見た風景

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ドブロブニクの旧市街

日本ではあまり知られていませんが、
バルカン半島の国々の料理は、
それぞれが影響し合いつつも似て異なり、
おいしいものがたくさんあるのですよ。

とりわけ僕らがいま調べているボスニア・ヘルツェゴビナの料理は、
トルコ、ギリシャ、ハンガリーなどから受けた影響が微妙に混ざり合い、
独特な味わいを醸し出していると思います。

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たとえば、こんなレストランで

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Bosanski Lonac ボサンスキー・ロナク
ボスニア・ヘルツェゴビナ風の肉じゃがシチュー?

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Klepe クレペ ボスニア・ヘルツェゴビナのギョーザ
トルコのマントゥとの共通点がありますが、ちょっと違う

しかしながら、文化の接点には光と影の両面があるもの。
ご存じのとおり、ここ半世紀を振り返っただけでも、
バルカン半島はユーゴスラビア崩壊の舞台となり、
なかでもボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は、
第2次世界大戦後のヨーロッパで最悪の戦場となってしまいました。

1995年の終戦から29年が経ち、
インフラや経済は目覚ましい復興を遂げたものの、
街はずれや郊外に取り残された廃墟には、
痛ましい内戦の傷跡が未だ生々しく残されています。

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古い建物でいたる所に見られる弾痕

また、国家を2分するスルプスカ共和国との境界には、
未確認の地雷が多く残されているといい、
現在の平和と繁栄が、薄氷の上に成り立っている事実を、
通りすがりの旅人ですら、感じないわけにはいきません。

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美しくても、うかつに近寄れない場所が・・・

当事者ではない僕らが気を遣うのもこの点で、
「敵の友は敵」の地雷を踏まないよう、注意が欠かせないのですよ。
この話はまたセルビアに入る前にしますが、
国家、民族、宗教などの違いから起こった紛争は複雑な経緯をその背後に持ち、
ハリウッド映画のように単純な善と悪には分けられません。

誰が、どちらが間違っていたか、をジャッジするのではなく、
(そういうことは常に「勝者」がやっていますから)
紛争の構造を理解することで、二の轍を避ける。
個人的には、そうした思いで負の遺産と向き合っています。

それにしても、久しぶりにニュースを読むと、
世界は産業革命時代に逆行し始めているようですね。
「経済再生」も大切ですが、わかりやすい、
「損と得、どっちがいい? そりゃ得だよね!」という単純化は、
カネ持ちの、カネ持ちによる、
カネ持ちのための社会を作り出すだけのような・・・
そう、結果のギャップを無視した新自由主義の末路としてね。

しかし、ここバルカン半島にいると、
資本家に富を吸い上げ続けられた苦しみから生まれた社会主義が、
とどのつまりどうなったのか? 
その現実を目の当たりにせざるを得ないわけです。
(チトーさんも泣いているだろうなぁ・・・)

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サラエボの旧市街

寒さが身を切るサラエボの繁華街で、
小学校低学年くらいのロマの子供が、
家族連れで道行く人に施しを求めていました。
その家族の中には、ちょうどその子と同じくらいの年齢の子供が。
僕はその二人が、一瞬、視線を合わせたことに気づきました。

暖かい服に身を包まれた金髪の子。
汚れた薄い服を着て、お腹をすかせたロマの子。
彼らはあの瞬間、相手を見て、それぞれ何を思ったのでしょう?

自由、平等、労働、そしてその結果としての格差・・・か。

世界が本当に必要としているのは、
机上の空論を弄ぶ理論家でも、
損得勘定で幸福を描く億万長者でもない、
あの子供たちを前にして、
ふたりを同時に納得させられる人なのだろうな。

僕はかじかんだ手をさすりながら、
そんなことを考えておりました。

to be continued...

えーじ

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2004年に再建されたモスタルのスターリ・モスト橋。
この橋が2度と壊されませんように。
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2024年11月12日

第24回取材旅行 その37

「えーじ、また熱が上がってきたよ」

む〜・・・カロナールじゃダメか。

体温が38度を超えて解熱剤を飲ませたものの、
一時は下がったのですが、すぐまた38度台に戻ってしまいました。

これは病院に連れて行くしかないな。

そこで近くの病院を検索すると、
ラッキーなことに、300メートルも歩けば、
コトルの公営地域病院があるではないですか。

よし、まずここに行って診療してくれるか聞いてみよう。

hospital_me.jpg

GoogleMAPのナビに従って着いたのは、なぜか入院病棟の裏口。
(機械ってやつはねぇ・・・)
取りあえず中に入って出会った人に受付の場所を訊けば、
みなさん、英語はNGのご様子です。
しかし、地球人には変わりありません。
合計3人の人に話しかけ、ようやく受付に到着しました。
ところが・・・

「こんにちは。僕は日本人の旅行者です。
 実はワイフが昨夜から高熱を出しまして。
 こちらで診ていただくことは可能でしょうか?」
「・・・・?」

受付の50歳台後半と思しき女性は、
訝しげな表情で僕を凝視するだけ。

あ〜、こりゃ通じてないな。
おまけになんか怪しまれてる。

そこへ20歳代後半の女性看護師が現れたので、
同じ話を繰り返しましたが、彼女もまた当惑するばかり。

ん〜・・・2019年のカイセリ(トルコ)の一件を思い出すな。

あの時も受付には英語の話者がひとりもいなかったのです。
しかし、ピンチの時にもチャンスはあるもの。
そこへ20歳代の男性の患者がやって来て、

「僕は英語が話せます」
「おお、それは良かった! 実はですね・・・」

で、三度、状況を説明したところで、彼がそれをコソボ語(たぶん)に通訳。
ようやく受付の女性にご理解いただけました。
そして彼女の言葉が英語に翻訳され、

「大丈夫ですよ。診療してくれます」
「それは助かりました!
 ではワイフを連れてきますので、必要なものを教えてください」
「IDと現金だけです」
「ありがとうございます!」

そこですぐにホテルへ引き返し、

「ともこ、動けるかい?
 300メートルほど先の地域病院で診てくれるってさ」
「え? うれし〜! すぐ着替えるね」

ここからは、ほぼボディーランゲージとなり、
受付の女性のジェスチャーと、
断片的にわかる単語から類推するに、

なになに、3番の診察室の前で待て?
ドアの横にいる女性の次?
え? そんじゃ入っていい?

こんな調子でドアをノックすると、
待っていたのは先ほど受付で会った看護師さん。
彼女とも会話はできないので、

ん? さっそく検査?
手に持っているのは長い綿棒・・・
ということは、まず新型コロナの検査からね。
はてさて、結果はいかに?

彼女は手際よく鼻の粘膜をこすって検体を採取し、
試薬に加えて検査紙の上からポタポタ。
結果が出るや、
ちょっと待ってとばかりに部屋を出て行ってしまいました。
僕は恐るおそるテーブルに乗っている検査紙を覗き込み、

CとT・・・で、Cに赤い線が一本・・・
って、前にやったことがあったな。
これって陽性だっけ?

そこへ看護師さんが戻り、若手らしくスマホでコソボ語を英語に翻訳し、

なになに、この後、ドクターの検診になります?

「あの、これ新型コロナの検査ですよね?」

彼女は頷いています。

「で、結果は陽性?」

彼女は首を横に振りました。

「ともこ、良かったね、新型コロナじゃないみたいだ」

そしてようやくドクター(この人も女性)が現れ、
彼女は片言の英語が話せたので、また状況を説明し、
まずはパルスオキシメーターで血中酸素濃度のチェック。

「咳は出ますか?」
「ときどき出ます」

ここで口を開けて〜、舌を出して〜となり、喉を覗きこんで、

「赤くなってます」

次に後ろからTシャツをまくり上げ、聴診器を当てたところで、
今度は僕が通訳開始、

「ともこ、大きく息を吸って。ゆっくり繰り返して。
 ・・・先生、何かノイズはありますか?」
「ありません。
 どうやら細菌性の病気のようですね。
 抗生物質を処方するので、それを飲んでください。
 いま処方箋を書きます」
「ありがとうございました」

受付で会計を済ませると、
さっきまで訝し気に僕らを見ていた人たちの顔に笑顔が。
社会主義時代と内戦の影響か、
南スラブ系の人たちは見知らぬ相手に警戒心を抱く傾向が強いのですが、
僕たちはどうやら受け入れてもらえたようです。

「みなさん、ありがとうございました!」

おかげで処方してもらった抗生物質を飲むと、
2回目から効果が出始め、ともこは快方に向かい始めました。
そしてその後2日間安静にし、
予定どおり、クロアチアのドブロブニクに向けて出発したのです。

旅先での病気やけがは体がつらいだけではなく、気持ちもへこむものです。
しかし、そんなときこそ、落ち着いて、自分のコンディションを理解し、
回復のみに目標を絞り、それに向けてやるべきことひとつずつ、
方法にこだわらず、柔軟にやって行く。

僕はときどき、旅とは一種のテストなのではないか?
そんな風に考えながら、進めているときがあります。
今回もそうしてこの問題を乗り越えました。

to be continued...

えーじ

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元気になりました!
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2024年11月09日

第24回取材旅行 その36

Dobar dan!(ドーバルダン(こんにちは!))

僕たちは今、この旅で21番目の渡航国、
モンテネグロのコトルに滞在しています。
予定よりだいぶ早い時間に国際バスが着いたので、
さっそく取材を始めるつもりでしたが・・・

tomoko_me.jpg

ともこが熱を出してダウンしました。

ま、長い旅にはこういうのも付きものでして。
何ごともなく帰国できたことなど1回もありませんからね。
事の起こりは10日前、アルバニアのティラナで。

「ともこ、
 うがい薬はどっちのファーストエイドパックに入ってたっけ?」
 
 (バックパックが盗まれることを想定して、
  医薬品は同じ内容のものを2分割して持っているのですよ)

「使いかけはえーじの方だよ。のど痛いの?」
「いや、ちょっといがらっぽいというか、違和感があってね」
「大丈夫? 因縁のバルカンだから気を付けなくちゃ」
「ああ、今のうちにケアしとけばひどくならないだろう」

旅をしているときは、ちょっとした体のサインにも気を付けています。
これを見落とすとツケが大きくなりますからね。
そしてコソボのプリシュティナに移動し・・・

「ゴホゴホ・・・ゴホゴホ・・・」
「・・・? ともこ、咳が出てるな」
「うん、ちょっとのどが痛いの。のど飴なめようかな」
「熱は?」
「さっき計ったら平熱だった」
「それは良かった。ここからペーヤまでは真冬の気温だ。
 空気も乾燥してる。悪化させないよう今日はオフにしよう」
「えーじは?」
「僕は大丈夫。元気だよ。この前ののどの違和感もなくなった」

そうして移動したペーヤの最低気温はマイナス2度。

「だいぶ冷えるな。体調は?」
「のどの痛みはほとんどなくなったよ」
「良かった。とはいえこの気温だ。
 夕食の取材はなるべく近くで済ませよう」
「明日はモンテネグロに移動でしょ?」
「ああ。それがちょいと問題があってね。
 この時期は1日に1本しかバスがない上に、夜行なんだ」
「時間は?」
「バスターミナルで3人のひとに同じ質問をしたんだけど、
 みんな出発は20時30分だと言ってた。
 でも到着時刻はばらつきがあって、5時から7時まで幅がある」
「でも、それくらいの時間なら、バスターミナルで朝食を食べて、
 コトルに移動すれば丁度いいんじゃない?」

ペーヤからモンテネグロのポトゴリツァまでの距離は約156キロ。
途中で峠をふたつ越えるとはいえ、所要時間が8時間から10時間とは。
どうやら相当の悪路みたいだな。
2019年の夏に同じルートを通過した旅人のブログでは、
10時30分発の日中の便で6時間半かかったと書いてあった。
コソボ、モンテネグロ間の国境の事情が変わった可能性もある。
ま、いずれにせよ、あとは行ってみないとわからないか。

pejabusterminal_xk.jpg
ペーヤの「国際」バスターミナル
建物はおろかトイレまで施錠されてしまうとは

こうして夜行バスが発車して約1時間半。
最初の峠道を越えたところでコソボのイミグレーションです。
手続きは入国の時と同じ。
よくあることですが、
ここで2名の乗客がバスから降ろされてしまいました。
その後にどうなったのかは知る由もなし。

続いて4キロほど山道を進んだところでモンテネグロのイミグレです。
バスが停まり、息で曇った窓ガラス越しに外を見ると・・・

「なんてこった。ともこ、コートを着て!」

ここでは氷点下で風が吹くなか、僕らはバスを降ろされ、
戸外のブースに並ばされての手続きが待ってたのです。
乗客はみんな震えながら順番を待っています。

「ううう・・・冷えるね」
「ああ、2017年のマケドニア、セルビア国境を思い出すよ」
「えーじが熱を出していたときのこと?」
「そう。具合が悪いのに僕らだけバスを降ろされて、
 「おぉ〜、日本人だ!」って顔見せになっただろう?」

審査が終わった僕らは急いでバスに戻りました。
さいわい、ここで連行された人はなし。
再びバスは暗い峠道を走り出し、やがて平地に出たところの街で、
4人の乗客が降りて行きました。

最後のトイレ休憩から1時間半。
ここはスルーみたいだけど、そのうちガソリンスタンドで止まるかな?

と、思っていたらバスは高速道路に乗ったではないですか。
車窓から見ていると全体が真新しく、最近できた道のようです。

・・・? ところで今どこだ?
ん? ここは・・・マテセボ?
って、ポドゴリツァまで50キロくらいの街じゃないか。

僕は腕時計に目を落としました。
時刻は24時。
バスは高速道路を時速100キロ以上のスピードで走っています。

おいおい、また話が違うぞ。
このペースだと25時にはポトゴリツァに着いちまう。
早けりゃいいってもんじゃ・・・

「ともこ、支度して。もうすぐ着くよ」
「え? もう? いま何時?」
「午前零時45分だ」
「ほんとに? 5時か7時に着くんじゃなかったの?」
「ああ、また状況が変わったらしい。
 ポトゴリツァのバスターミナルが吹き曝しでないことを祈ろう」

これまたバルカンではよくあることですが、
国際バスターミナルといっても、
道路わきのバス亭だったりすることが珍しくありません。
また、出発地のペーヤバスターミナルのように、
ある程度の規模があると楽観していたら、、
20時を過ぎたとたん、バスの出入りがあるにもかかわらず、
建物はおろか、トイレにまで施錠してしまうところも。
(仕方なく、僕は建物裏の草むらで・・・)

結局、僕らがポトゴリツァのバスターミナルで降ろされたのは25時。

busterminal_me.jpg

首都にある「国際」バスターミナルといっても、
建屋は3人掛けのベンチが5台ほどあるだけ。
当然、キオスクも含めてお店は全部閉まっています。
開いていたのはバスチケットの窓口だけ。

「ま、ご覧のとおりさ。
 でもクローズド型で暖房が入っているのが救いだよ」
「ここで夜明かし?」
「コトル行きの始発は7時5分だって。
 それまであと6時間か・・・とりあえずトイレを探してくるよ」

ターミナルの外に出るとトイレは戸外の地下にあり、
建屋の側面にハンバーガーを売る店が開いていました。

どこか泊まれそうなところは・・・

目視範囲であったのはターミナル正面のカジノだけ。
ネットで探したら徒歩圏内にホテルがありましたが、
この時間に飛び込みで泊まれる可能性はビミョーですし、
(だいたいスタッフが誰もおらず、ドアは施錠されています)
何より初めて訪れたバルカンの国で、深夜にうろつくのはとても危険です。

「やれやれ、今夜はここで夜明かしだな。
 トイレは外にあったよ。0.5ユーロで使える」
 
僕らはベンチに腰を下ろしました。

「寒いね」
「僕のコートを膝にかけるといい」
「えーじが寒いじゃん」
「いや、このままで丁度いいよ。それよりベンチが固くてお尻が痛いな」
「じゃ、バックパックから服が入っている袋を出すね。
 それをクッションにすれば」
「そりゃありがたい」

こうしてうとうと寝たり起きたりで6時間。

dogs_me.jpg
僕は子供と動物に好かれるたちのようで。
追い払っても戻ってきて僕の足をまくらに寝てしまう犬たち。

僕より暑がりのともこが「寒い」・・・か。
良くないサインだな。

budva_me.jpg
バスは岩がちの山道を抜け、ブドヴァの街を過ぎ

kotorbusterminal_me.jpg
コトルの小さなバスターミナルに到着
このときまでは良かったのですが・・・

こうしてコトル行きの始発バスで移動した僕らは、
早めにチェックインしましたが、夕方になって、

「この部屋、ちょっと寒いね」
「寒い? ちょっと熱を測ってみよう」

結果は、37.8度。

まずいな・・・

「かぜ薬を飲もう」

そしてその晩、僕が寝付いたころに、

「えーじ、えーじ・・・」
「・・・ん? どうした?」
「熱が上がって来ちゃった」
「何度?」
「38.6度」
「ちょっと待ってて。解熱剤を出すよ」

to be continued...

えーじ
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2024年11月05日

第24回取材旅行 その35

何が待っているかわからないバルカン半島での移動。
気合を入れてティアナのバスターミナルを出発した僕らでありましたが、
あっけなくコソボの首都、プリシュティナに着いてしまいました。
そのわけは・・・

「ともこ、そっちにシートベルトはある?」

僕らが乗ったのは、想像していたよりもだいぶ新しい大型バス。

internationalbus_al.jpg
内部は折りたたみテーブルにアームレストやトイレなど、
そこかしこが壊れておりましたが・・・

は、良かったのですけど、
とにかく飛ばすのですよ、ドライバーのお兄さん。
80キロ制限でも120キロくらいは当たり前。
交通ルールを守る他の車をがんがん追い抜いて行きます。

「えっと・・・ないよ、シートベルト」
「こっちもさ。やれやれ、事故らないことを祈るしかないか」

さいわい道路はよく整備されており、
ほとんど日本の高速道路と変わりません。

highway_al.jpg

しばらくしてバスの助手さんから名簿を挟んだクリップボードが回され、
乗客はそこに名前と生年月日を書き始めました。

peper_al.jpg

走り始めて約2時間。
アルバニアとコソボの国境に到着です。

border_al.jpg
高速道路の料金所のような国境
写真右上にはアルバニアの国旗がはためいています。

どのようにして国境を越えるのか?
それは行ってみなければわかりません。
外務省のホームページに個々の国境について細かい情報はありませんし、
旅人がブログなどで残した記録でさえ、
翌日も同じという保証はないのです。
国境の状況はとつぜん予告なく変わりますからね。

僕はインスペクターが乗り込んでくることを想定して、
サングラスをメガネにかけ変えました。
(ちなみに国境を越える前日は髭も剃っておきます)
まもなくバスが止まり、
助手さんが先ほど書いた名簿を持ってブースへ急ぎ・・・

お、戻ってきたぞ。

彼はバスに乗り込んでくるなり、
「Passport!」
これを僕たちだけに告げ、
2冊のパスポートのみを持って行ってしまったのです。
僕らの他には25名の乗客がいるにもかかわらず。

どうなってるんだ?

そして3分もかからず彼はまたバスに戻り、
パスポートを僕らに返した途端に出発。

え? 他の乗客の出国手続きは?

僕は車窓を流れる風景の異変に気付きました。

kosovoroad_al.jpg

あれは・・・民家? 脇道まである。
おかしい。バスはまだコソボのイミグレを通過していないのに。
ここは両国の端境だぞ。民間人が住めるエリアじゃない。

僕の疑問をよそに、バスはどんどん加速して行きます。
そこで GoogleMAP上の現在位置を確認してみれば・・・

「国境をとっくに通過しているじゃないか!
 ここはもうコソボの市街地なんだ。
 じゃ、コソボの入国審査はどうなったんだ?
 ん? 待てよ・・・」

と、パスポートを開いてみれば、

stamp_xk.jpg

これはアルバニアの出国スタンプじゃない。
コソボの入国スタンプだ!
でも、さっき手続したイミグレにはアルバニアの国旗があったぞ。
ということは、
アルバニアのイミグレがコソボの入国手続きを代行してる?
そんなバカな・・・

ここで僕は、コソボの民族構成を思い出しました。

そうか・・・なるほどね。
コソボの国民の9割以上はアルバニア人。
で、独立の後押しをした国のひとつがアルバニアだ。
そして僕ら以外の乗客が全員アルバニア人だったとしたら、
この2国は建前上べつの国でも、実質的にはひとつなのかもしれない。

にもかかわらず、
なんでこんなまどろっこしいことをやっているのかというと、
統合を試みたらコソボがセルビアから独立するというストーリーが、
アルバニアとセルビアの領土問題になってしまう。
そうなったら国際法上の判断だけではなく、
国際世論も今と同じというわけにはいかないだろう。

「えーじ! なにをブツブツいってるの?」
「あ、いや、ちょっと考えごとを」
「今日の移動は10時間かかるんでしょ?」
「のはずだけど」
「でもバスはずっと飛ばしてるし、国境もすんなり越えちゃったよ」

僕は腕時計に目を落としました。

10時? 確かにともこのいうとおりだ。
プリシュティナまでの距離は・・・残すところ約50キロメートルじゃないか!
このスピードで走るなら、あと1時間もかからず到着する。

「バスチケットを買うときに到着時刻を聞き間違えたんじゃない?」
「いや、そんなことはないよ。彼女はメモに時間を書いて説明を・・・あ」

彼女は17:00・・・ではなく、11:00と書いたのかも?

これ、国籍の違う人と手書きのやり取りをした方ならご経験があると思いますが、
1,2,3,4のようなアラビア数字は、日本人の書き方とかなり違うケースがあり、
とりわけ1と7は混同しやすいのですよ。
今回のケースは結果からすると・・・

「やっぱり読み間違ったのかも」
「でも、逆じゃないから良かったじゃない?
 11時に着くと思ってたのが17時にならなくて」

こうして適当な車中食になるところを、
ランチからレストランで取材ができた僕らでありました。

プリシュティナの天気は晴れ。
最低気温は1度と、東京の12月下旬の気候です。

to be continued...

えーじ

prishtinabusterminal_xk.jpg
プリシュティナのバスターミナルで
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2024年11月03日

第24回取材旅行 その34

前回お話しましたように、
バルカン半島諸国はヨーロッパの中でも経済的にはイマイチ。
それゆえハンガリー、ルーマニア、ブルガリアなど、
EUに加盟してなおユーロの導入ができない国も珍しくありません。
なかでも僕らが滞在中のアルバニアはバルカン半島最貧国といわれ、
(現在EU加盟交渉中。NATOは加盟済み)
いったいどんなことになっているのやらと心配しつつ入ってみれば・・・

好景気に沸いていました。

busterminal_al.jpg
国際バスが発着する、2023年に開業したティアナの東バスターミナル

busticket_al.jpg
こんなバス会社の窓口がいくつか並んでおりまして。
ちなみに赤い服の女性はお客さんではなくスタッフです。
彼女からチケットを買いました。

かつて平均月収3万円台のジリ貧時代があり、
共産主義から資本主義へのハードランディングは重い後遺症を残していましたが、
CEICのデータベースによれば、
コロナ禍明けの2022年6月ごろから急速に経済が回復し、
今は何と平均月収が13万円台になっているとのこと。
この数字は未だ日本の半分以下とはいえ、かつての約4倍をマークしており、
コソボ(11万円台)とモルドバ(12万円台)をすでに抜いています。

世に「統計は信用するべからず」との格言もありますが、
この数字は確かに僕らが目にしている光景とも一致していました。
なるほど首都ティアナでは高層ビルの建築がそこかしこで行われ、
インターコンチネンタルホテルなど、
大手の高級巨大ホテルがオープンを控えているではないですか。

hotels_al.jpg
ティアナの中心に聳え立つインターコンチネンタルホテル(黄色)
手前のティアナインターナショナルホテル(白)と下部が連結されていたので、
後者は買収されたのかしらん?
ちなみに右側の高層ビルも建設中です。

painting_al.jpg
社会主義時代のレガシーは、この壁画くらいかしらん?

街中にはメルセデスやBMWなどのドイツ車が溢れ、
行き交う人々のいで立ちも、お洒落で小ざっぱりしています。
当然のことながら物乞いの姿も少ない。

tiranastreet_al.jpg
ティアナ市内の道路はご覧の状態

touriststreet_al.jpg
観光客が行き交う通りはお洒落な歩行者天国でした
今日はスペインフェアが開催中

僕は経済学者ではありませんから、その理由まで読み解けませんが、
アルバニアは冷戦終了後から続く長いトンネルを、
ようやく抜け出そうとしているのかもしれません。
これはこの国の成り立ちを考えると、喜ばしいことなのでしょうね。
(例のネズミ講危機で甘い話には懲りているでしょうし)

アルバニア(アルバニア人が95パーセント)は欧州の中でも民族的にユニークで、
彼らの話す言語はゲルマン、ラテン、スラブ語派のいずれにも属しません。
独自のアルバニア語派とは今更ながらに驚きました。
どおりでカフェやレストランで聞こえてくるのは、耳慣れない響きの言葉です。

たとえば「はい」が「ポ」で「いいえ」が「ヨ」。
会話中によくある、「はい、はい」が「ポー、ポー」となるのですよ。
ちょっとかわいいでしょ?
これだけでもヨーロッパの中で似た言語がないことを、
ご推察いただけるのではないでしょうか?
同じく少数派のマジャール語(ハンガリー語)ですら、
「はい」が「イゲン」、「いいえ」が「ネム」ですからね。

また、その民族性のせいか、
オスマン帝国から独立後もユーゴスラビアには組み込まれず、
また、社会主義化しても、最終的にソ連はおろか、
ユーゴスラビアや中国とも縁を切り、
鎖国状態となっていた時代すらありました。

宗教的にはムスリムが国民の半分以上を占めるとはいえ、
社会主義時代に宗教を全面否定した経緯からか、
(アゼルバイジャンもそうでしたが)
宗教色はかなり薄い印象を受けています。
ヒジャブで顔を覆う女性はほとんどいませんし、
街中でアザーンを聞いたのも、この4日間で1回だけでした。

こうした歴史的背景はとうぜん料理にも反映されており、
周辺民族の影響を受けつつ、独自にローカライズされたものが多々あります。
そこで取材した一部をご紹介しますと、

gulyas_al.jpg
Tasqebap タスケバブ
ハンガリーの国民食のグヤーシュが伝わったといわれる料理。
メニューにはGoulashと載っていることもあります。
しかしオリジナルとはだいぶ異なり、
香りの中心となるキャラウェイが使われておらず、
濃度もあまり高くない、シンプルなビーフスープになっていました。

musaka_al.jpg
Musaka ムサカ
アラブ由来で元来は中東風マーボナスのような料理(ムサッカァ)ですが、
日本で知られているのはベシャメルソースを使ったラザニア風のギリシャ版ですね。
アルバニアでは、ミートソースが省かれ、
ベシャメルソースもごくわずかしか使わない、
ジャガイモを中心とした野菜の重ね焼きになっていました。
ユニークなのは最下層がラバシュのような薄焼きパンを重ねたものだったこと。

fergese_al.jpg
Fergese ファルジェサ
トマトやパプリカなどの野菜にカッテージチーズを入れて煮込んだもの。
濃厚野菜ポタージュ風からラタトィユ風まで、お店ごとに違いがありました。
一般的には朝食で食べられていますが、アルバニアの代表的な料理として、
ほとんどの郷土料理レストランのメニューにあります。

quofte_al.jpg
Qofte キョフテ
料理名からするとペルシャ(現イラン)由来と考えられる、
中東を中心に広く食べられている料理。いわゆるミートボールです。
アルバニアバージョンは日本でいうミニハンバーグ型に整形され、
スパイス感はほぼなく、ミントやオレガノなどのハーブで風味付けされていました。
肉はクリスチャンの店だとポークが使われていることも。

tavekosi_al.jpg
Tave Koshi タベ・コシ
アルバニアのナショナルディッシュといわれる料理。
ヨーグルトに卵、小麦粉、オレガノを入れ、
チキンやラムと一緒に土鍋で焼き上げたもの。
熱々を切り崩すと、ふわっとしたオムレツのような断面が現れ、
ヨーグルトとオレガノの混ざったフレッシュな風味が楽しめます。
材料の組み合わせからして、
ヨルダンのマンサフと何か関係があるのかしらん?

trilece_al.jpg
Trileche トリ・レチェ
料理名を日本語に直訳すると、「3種類の乳」。
なるほどレシピを調べれば、牛乳、コンデンスミルク、
生クリームが使われておりました。
素朴な味わいの濃厚ミルク風味ケーキ。
上部をコーティングしているキャラメルソースが決め手です。
なんでもデザートやおやつのほか、風邪をひいたときに食べるそうな。

他にもいろいろおいしいものがあるのですが、
(ワインやビールも!)字数の都合で続きはまたいずれ。

さて、明日は朝7時発の国際バスでコソボの首都、プリシュティナに向かいます。
距離は250キロメートルほどしかないにもかかわらず、所要時間が10時間!
これだけでも「何かありそうだな〜」な気がしません?
コソボ紛争も完全に終息したわけではありませんしね。

それでは僕の悪い予感が外れることを祈りつつ、ベッドに入りたいと思います。
おやすみなさい。

to be continued...

えーじ

restaurant_al.jpg
ティアナで取材中のレストランで
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2024年11月01日

第24回取材旅行 その33

Mirëditë!(ミラディタ!(こんにちは!))

11月になりましたね。日本を出発して89日目。
僕らはいま19番目の渡航国、アルバニアのティアナに滞在しています。

北マケドニアのスコピエで7年越しのリベンジを果たした僕らは、
(前回は到着した翌朝に僕が熱を出して、ほとんど何もできなかったのですよ)
翌日、ローカルバスでオフリドへ移動し、
一泊した後、今度は「国際」バスに揺られてここまで来ました。

ohridstreet_mk.jpg
レストランや商店が立ち並ぶオフリドの目抜き通り

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オフリド湖畔に佇む聖ヨハネ・カネオ教会

sunset_mk.jpg
オフリド湖に沈む夕日。疲れた体が癒されます。

今回のルートではイギリス以降、ベルギーからギリシャまでは、
EU域内かつシェンゲン協定締結国圏だったので、
国境を超えている感覚はほとんどありませんでした。
そしてギリシャを出国し、北マケドニアに入国するところから、
久しぶりにパスポートコントロールが始まったのです。

そこで楽しみにしていたのがパスポートに押される入国スタンプ。
同じ国でも前回が「マケドニア」で今回は「北マケドニア」ですからね。
どんな風にデザインが変わったのかな?
と、期待していたら・・・

「あれ? スタンプが見当たらないな」
「あたしも。いっぱい押してあるから見落としたかな?」

ギリシャ、北マケドニア間の陸路国境では、
バスの乗車時にチケットとパスポートが回収され、
イミグレーションでドライバーが手続きを行ったあと、
車内に戻って返されるのです。

「ん? おかしいぞ。
 押し忘れられると出国のときに不法入国容疑をかけられちまう。
 ドライバーに言って来るよ」

と、振り返れば、ともこが別の乗客に「ともこ語」で話しかけており、

「北マケドニアはスタンプがないんだって!」
「え? もしやICチップで管理してるのか?」
「そうみたい」

これがなんとアルバニア国境でも繰り返され、
楽しみにしていた入出国スタンプは過去のものとなってしまいました。

ともあれ、出たとこ勝負のバルカン半島も、
今のところすんなり進んでいます。
相変わらず事前情報は曖昧模糊としておりますが、
取りあえず、降ろされたバスターミナルで、
次の目的地まで行くバスチケットを訊いてみると、
即「いつの便ですか?」となりまして。
今日も3人に聞いただけで、
コソボのプリティシュナ行きチケットをゲットできました。

それから現地通貨の調達も、
北マケドニアのデナール、アルバニアのレクともに、
国際デビットカードを使ってATMから引き出し完了。
(アルバニアでは対ユーロレートが1/100の固定相場制なので、
ユーロもたいてい使えます。100レク=1ユーロ)
ATMはバスターミナルだけではなく、街中でもそこかしこで見かけます。
(僕はセキュリティの問題でなるべく銀行の内部に設置されたものを使いますが)
クレジットカードも7年前とは比べ物にならないくらい普及しており、
決済はまったく問題ありませんね。

おカネの話が出たところで、ギリシャ以降にホッとしたことをもうひとつ。
それは物価。

ヨーロッパの物価はざっくりいうと、西高東低、北高南低でして、
スウェーデンなどの北欧は北西ですから高く、
反対に南東のバルカン諸国が安くなります。
(例外的にスイスやリヒテンシュタインは中央でも高いです)
実際、ダブリンではタオルもない2段ベットの狭い部屋が、
週末ということも重なって1泊37,000円もしましたが、
(僕らの旅歴で最高価格!泣ける・・・)
ギリシャ以降は、15平米以上ある居心地のいいダブルの部屋に、
おいしい朝食まで付いて1泊7,000円前後!(※)

食費も郷土料理をレストランで食べても、
ふたりで2〜3,000円くらいです。
あ、ワインはポルトガル以上に安いですよ。
昨日はいったオフリドのローカルレストランでは、
個性的でおいしい生ワインが250tでたったの270円!
(ととら亭のグラスワインの半額以下)

にもかかわらず、ギリシャを除くと観光客はぐっと少ないです。
特にアジア系は、あまり見かけなくなりました。
そのせいか、一応、現地では「観光地」とされていても、
ローカルがスレてないんですよね。
なんか余所行きの顔をせず、素で接してくれているというか。
そんなところも僕らがバルカン好きな所以なのですよ。

to be continued...

えーじ

breakfast_mk.jpg
早朝の移動ではバスターミナルのベンチで食事も。
このとき食べた焼き立てのチーズペストリーはおいしかった!

※ ホテルの部屋代
日本の宿代は、ホテル、旅館、民宿を問わず、一人あたりで課金されますが、
これは世界的にも珍しく、ほとんどの国では一部屋あたりで支払います。
(もちろん一部屋当たりの上限人数は決まっています)
ですから僕がダブルで7,000円といったら、総額7,000円ということで、
(わかりやすく日本円に換算してます)
ふたりで14,000円というわけではありません。
posted by ととら at 00:13| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記